2008年3月23日日曜日

ゴーストタクシーズ

ブログに不慣れなためご迷惑をおかけしています。バナーの扱いもよく分からないし、スパムと間違えられたり、苦境の連続。ともあれ、逆境こそ、屈強の瞬発力を培ってくれるのかも。ヴィクに続け!!

ゴーストタクシーズ                白浜みどり
あちらでは空はすっかり晴れわたっている!
──きみがこちらに来たら、なにが見える?
雨、稲光、地獄の悲歎。
       パゾリーニ

「ゴーストタクシー」といったって、なにも「幽霊船」みたいにタクシーそのものがゴーストなわけじゃないし、むろん運転手のおれもゴーストではない。そうではなくて、ごく普通のタクシーに乗りこんだあんたやきみ、ごく普通のお客さんがみなゴーストになってしまうのだ。タクシーは緑と黄のツートンカラーの車体にエッフェル塔みたいな行燈を点して東京じゅうを走り回っているごく普通の車だし、運転しているのはちょっと兄ちゃん風だがごく普通の小父さんで、それについ手を挙げて乗りこんでしまったお客さんのあんたやきみもちょっと飲んじゃってはいるがごく普通のひとだ。
だから誰も気がつかない。ついおれの車に乗りこんだお客さんのあんたやきみはその日その時からみなゴーストになる、つまり社会現象的には蒸発してしまったのだ。しかし人が不意に消えるのは大都会では別に珍しい話じゃない。それゆえあんたやきみがおれの車に乗ったばかりにその日その時からみなゴーストになって消えてしまったからといって、どこの新聞にも載らないし、テレ朝やフジテレや日テレが、すかさず報道特集を組むこともない。
 おれがこの稼業を始めてから、つまりゴーストタクシードライバーになってから、早いものでもう半年が経つ。正月に始めて月に十二出番、一度も休んだことがないから、七十二出番の皆勤だ。ゴーストにする乗客は一出番につき十人までと決めているから、今年は今日までに七百二十人の乗客がゴーストとなった、おれの車につい乗ったばかりに。ゴーストにしてしまうといったって、みな死体にして重石をつけて晴海埠頭から海に投げこんでいるわけじゃない。そんなことをしていたら重労働だし、一出番につき十人も死体にしていちいち重石をつけて海に投げこんでいた日には、だいいちこちらの身体がもたない。他人のあんたやきみに死んでもらうのは別にかまわないが、あんたやきみの死体の始末というのが実に厄介なことなのだ。だから死体も残さずにゴーストになってくれるというのは、結果的には、実はおれにとっても最良の選択であったのだ。
 ゴーストタクシードライバーにも見習期間っていうものがある。去年の十二月のおれはゴーストタクシー見習ドライバーだった。六本木、渋谷、新宿の深夜の酔客を拾って、長距離客が寝こんだのを見澄まして分厚い札入れを上着の内ポケットやズボンの尻ポケットから抜き取ると、公園脇の凍てついた舗道にでも下ろして、ハイサヨナラしてしまう。雪が降ろうが不良どもが寄ってこようが、あとは公園脇の舗道にぐっすりと寝こんだ酔客自身の運命に委ねるのだった。
《死んでしまったらどうするのだ?》
ゴーストタクシー見習研修の一環として、必須課程ではあったけれど、初心なおれはかなりどきどきしたものだった。このゴーストタクシードライバー研修期間っていうものが、おれには実に不愉快だった。人事不省の他人のものを盗むってことが卑怯のような気がして、どうしても快感とは結びつかなかったのだ。それでもゴーストタクシー開業資金を得るために我慢せざるをえなかった。他人の財布を抜き取る不快感に耐えているうちに、おれのゴーストタクシードライバー開業の決意はますます強固になった。《短い人生、いつまでもけちな盗みを働いている場合じゃない》
おれはバリバリのビジネスマン顔負けの起業家精神にあふれていた。おれの名前は水田洋二、別名〈火の玉小僧〉と呼ばれている。幼いころから喧嘩には負けたことがない。三十七歳、離婚歴一回のチョンガーだ。平常勤務の日収平均五万円前後、今日日のタクシー運転手としては稼ぐほうだ。月収六十万円の半分は会社が持ってゆく。だからなんやかやと引かれて手取りは月二十五万円に満たない。早朝から朝、昼、晩、夜通し翌朝まで働いてアケの日には死んだように眠るだけの毎日で、この低収入では経済的には奴隷身分と呼んでよい、ワーキングプア予備軍だ。肉体的には酷使の一語。唯一、精神的にはサラリーマンよりは多少、ふっきれて自由で健康的な場合もあるが、それはあくまで個々の運転手次第だろうし、文化的には最悪の環境にいることは言うまでもない。ちなみにこの半年間のゴーストタクシードライバーとしてのおれの収入を記しておくと、日収は大きくバラつきがあるものの平均十八万、月収平均百八万、半年で六百四十八万、これがすっぽりおれの懐に納まったのだ。今年の年収は軽く千三百万を超えることだろう。誰も知らないことだから税金さえ納めなくてよい。むろんこつこつと汗水垂らして稼ぎだした平常勤務の年間賃金四百万円前後もある。こっちはしっかりと税金は天引きされている。ゴーストタクシードライバー収入から三百万円を人並みに暮らすために生活費に補填しても、年間一千円万近くの金を生活費とは関わりなく自由に使えるわけだ。ゴーストタクシードライバー仲間を募って、これを元手にゴーストタクシー会社を設立するのは容易い。そうしたら有り余る収益金で美術出版社などを立ち上げるのも面白いかも知れない。

 しかし事の真相は〈火の玉小僧〉こと水田洋二が語って、あとは口を拭っている、そんなありふれた生易しいものではなかった。年の瀬もおしつまった去年の十二月二十七日深夜二時、終電の客も近場ばかりに終わって三鷹駅南口のロータリー広場にとぐろを巻く客待ちタクシーの長い列の先頭でおれはうつらうつらしていた。
「トン、トン」
 車の天井を叩くやつがいる。おれはハッとして反射的に後部座席の自動扉を開けた。天井を叩かれると車内ではガンガンと異様に響く。こんなときはドアを引っ掻くようにそっと叩くものだ、控えめに。
「はい、お待たせ。どちらまで?」
 首都高をぶっ飛ばして木場で無粋な客を降ろしたころには眼もすっかり覚めてしまった。皺くちゃなハイライトを咥えて、紫煙を肺の底まで吸いこんだ。と、目の前の交差点を泳ぐように斜め横断してくる酔っ払いがいる。腹の出た若造がダークな背広に銀枠黒のアタッシュケースをぶら提げている。カモには違いないけど厭味なタイプだ。
「はい、お待たせ。どちらまで?」
「大宮」
《やれやれ方向が違うぜ、帰庫するころには朝の五時を回
っちまう》
「大宮のどちらまで?」
 確認するが返事がない。後ろを向くと、
「スースー」
《もう寝こんでやがる。仕方ない、大宮駅につけて起こすとするか》
 おれは最短コースを驀進した。多少、運転がラフになったが起きるものではない。酔っ払って寝こんだ小荷物同然の客に多少揺れたくらいで起きて口を利くことを期待するほうがどだい無理というものだ。途中、ゴツン、ゴツンと窓枠に頭をぶつけていたのに目も開けはしない。
《たいした石頭だ。衝突しても起きるかどうか》
「お客さん、着きましたよ、大宮ですよ」
「グーグー」
 大宮バイパスに降りるころから、しきりに声をかけてみたのだが、時間が時間だし、アルコールも染み出るほどた っぷり入っているから起きるものではない。後部座席の自動扉をパタパタと開閉して車外の冷たい空気の塊を一個、二個と赤い痘痕面にぶつけてやったが、そんなことで起きるものではない。おれは仕方なく車内を密閉してエアコンを〈弱暖〉から〈強冷〉にして車外に出ると、だだっ広い田舎の駅前で一服した。
 見あげればいつしか青い闇が溶けて空が白んできた。
 いくら暖冬でも、明け方は靴底から冷えが這いあがってきて、身体の芯まで冷えこむ。まだ起きないどころか客は後部座席全体を独り占めして寝そべって高鼾だ。おれは諦めて車外からスペアキーをかけて無人の駅構内を横切り、公衆トイレを見つけてブルブルッと用を足した。車の脇に戻ってきてからも、車内の様子を覗き見てはもう二、三服した。まだ起きない。
《おおっ寒っ》
 スペアキーを差しこみ、ドアを開けて運転席に身体を滑りこませてみれば、車外が北海道なら車内は南極だった。おれは白い息を吐きながら〈強暖〉にして、両手に息を吹きかけた。
「ガォーガォー」
 客の鼾は高まるばかりだ。どんなありさまか後ろを見やるまでもなかった。
《やれやれ、また交番でお巡りさん立会いのもとに揺り起こさねばならないか》
 おれは何気なしにギアをニュートラルにしてアクセルをそっと踏んだ。異変はそのときに起こった。
《ブーンルルンン》
 微かな振動とともに車内に仄かな緑色の光とオゾン臭が満ちて、
「危ねえ!」
 手の切れるような万札が宙を乱れ飛び頬を掠めては次々にダッシュボードに貼りついた。パラパラと小銭まで宙を飛んできてチャリンチャリン、こちらは次々に釣り銭箱のなかに納まった。
「なにも、投げることはねえだろう!」
 おれはキッとして後ろを振り返った。が、大きく見開いたおれの眼はたちまち点になってしまった。 後部客席の足元には異界への、あちらへの入り口が黒ぐろと大きな口を開け、すでに下半身を奈落に吸いこまれていた客は見る間に上半身も吸いこまれて、赤あかと狭まってきたあちらへの唇、異界への入り口に残るは救いを求めて差し伸べた客の両手だけとなっていた。
「持ってけ、三途の川の渡し銭だ!」
 おれは釣り銭箱の小銭を一掴み、客の開いた手のひらに投げつけてやった。そして前を向き、額に両拳を宛がい、強く目を瞑って深呼吸、それからそっと後ろを振り返った。相変わらず寝こんでいる客の姿を期待した後部座席には白いレースのカバーシートが白じろと耀いているばかりだった。気がつけば微かな振動も仄かな緑色の光もオゾン臭もすっかり消えていた。それでもダッシュボードには手の切れるような十数枚の万札が消えもせずに貼りついていた。
 夜明けまえの駅構内に人影はない。構内タクシーの連中はみな座席を倒して仮眠中だ。先頭の一、二台も室内灯を点けて日報を締めている。むろん駅前交番にお巡りの姿はない。こんな異常事態が起きたというのに目撃者は皆無ということだ、おれ独りを除けば。バックミラー越しに見た白い煙――そのなかに足掻く客の小さなシルエットをしかと見た、とおれは思ったのだが――それを目撃した者もいない、おれ独りを除けば。
《とうとうゴーストになっちまいやがった、素直に起きれば良いものを!》
《ま、それでも、きちんと大宮まで送り届けたことだし、料金も過分に頂いている。天国に召されようと、地獄に落ちようと、そいつは客の勝手というものだ》
 タイヤを軋らせてUターンしながらおれは無理にもおのれを半ば納得させざるをえなかった。外環をすっ飛ばしておれは一目散に帰庫した、薄青い闇を翔ける白梟にも似て。朝の早い相番を待たせての忙しい洗車時にもカーペットを剥いでフロアをごしごしと拭きながら、
《どこかにあちらへの、異界への入り口の痕が残ってはすまいか?》
 と、矯めつ眇めつしたことだった。当然のことながら車体にはなんの異状も認められなかった。ただ納金後はいつもの素寒貧のおれではなくて、尻ポケットの札入れには十数枚の万札を唸らせた年に二、三回しかいないこのおれ白浜竜次、四十六歳だけがいた。

 その翌日「替え玉一つ無料!」の新宿〈博多天神〉でしこたま辛子高菜をぶち込んでいつもの五百円ラー麺を啜るかわりに、築地の〈鮨文〉で三千五百円也の「おまかせ」で腹のくちくなったこのおれはいつになく殊勝なことを考えていた。
《あちらへの、異界への入り口はこのおれの乗りこんだ車にだけ開くのだろう。おれの乗りこんだ車だけがすなわち〈ゴーストタクシー〉なのだ。だとすればおれはこの異能をおのれの利得だけのためにではなく、世のため人のため、つまり清く貧しく美しい日本の民衆のために活かすべきではなかろうか?》
 信号待ちで歯をせせりながらこうも考えた。
《今晩からは銀座・赤坂では大企業の部長や課長を乗せ、どうせ社長や副社長はハイヤーだろうからな、永田町では政府与党の悪徳秘書を乗せ、どうせ議員本人はハイヤーだろうからな、霞ヶ関では外務省や財務省の高級官僚の卵を乗せ、どうせ大臣や次官はハイヤーだろうからな、新宿歌舞伎町ではヤクザの子分を乗せて、どうせ親分や幹部はハイヤーだろうからな、一人でも多くあちらへ、異界へと送りこむことにしよう。悪漢やその手下どもが一人でも少なくなればそれだけこちらは、この日本は、この世界は明るくなるのだ!》
 おれのこういう殊勝な決意には、意外と早く実現の機会が訪れた。その日、朝から晩まで、晴海・新橋・汐留方面で、勤勉・善良・無愛想、まま傲慢なサラリーマンたちを乗せ、六本木・渋谷・新宿方面で、善良・無邪気・無害無毒、まま銭惚けの老若男女の市民たちを乗せて走り回ったこのおれは、異界への扉を開けて〈ゴーストタクシー〉を開業するまでもなく、早くも日収のアシ、不文律のノルマ三万八千円を達成しつつあった。ところが、夜の八時を回って、銀座・霞ヶ関・永田町・赤坂と流して、恰好の〈ゴースト候補〉を物色したこのおれだったが、近場の一般客ばかりでめぼしい客にはめぐりあわなかった。《これではならじ》と、六本木・渋谷に目先を変えてみたものの、その日はやはりついていなかった。ゴマンといた〈ゴースト候補〉がみなおれの車に手を挙げない。みな、おれの前のチェッカー、ライスボール型行灯の朱色の車か、後ろの個タク、白っぽい車体の蝸牛や提灯行灯の個人タクシー、に乗りこみやがる。新宿歌舞伎町に回ったころには、おれはいささか焦っていた。発砲事件の影響が尾を曳いて、めっきり人通りが減って客引きばかりがやたらに目立つ歌舞伎町界隈、そして溝はなくても溝臭い職安通りに区役所通り、ここでもつきがない。花道通りも空車ばかりで進みもしない。苛苛と大ガードをやっと抜けて、青梅街道の事故渋滞をかわしたおれは、新宿西口から甲州街道を、咥えタバコで《どうせ客などあるめえ》と、不貞腐れて流していた。
 と、初台交差点を過ぎたとたん、ビルの陰から出てきた、遠目にも夜目にもそれと分かる三人組が手を挙げた。つまり真ん中のサングラスをかけたヤクザの子分でも、奇妙に膨れたボストンバッグを抱えたその右脇の手下でもなく、左端の、右手を懐に突っこんだままの坊主頭のチンピラが、残る片手を物憂く挙げたのだった。不意のことで中央寄りに車線変更する暇もありはしない。乗車拒否などして、チンピラに車体を穴だらけにされてもたまらないから、おれはやむなくハザードを焚いて急ブレーキの音もけたたましく路肩に急停車した。むろん、坊主頭のチンピラが懐にチャカを呑んでいるとの確信さえあったなら、おれだってフルスピードであとも見ずに逃げ出していただろう。年配の同僚なら、三人組の姿を見ただけでそうしていたことだろう、タクシー強盗の可能性だってあるのだから。
 こんな瀬戸際になってまで、どうせ会社の車なのに、車体やクレームや売上げのことで気弱になって、停車してしまうおのれのとっぽさ加減には、つくづく愛想が尽きたものだった。だが、坊主頭のチンピラは白っぽい背広のしたで毛深い胸を掻いているだけかも知れないではないか。それなのにこちらが止まらなければ、間違いなくクレームが明日の朝にはタクシー近代化センターに行き、課長のお供で南砂まで出向いて頭を下げて半日潰したあげく、会社へ戻ってもまた常務に絞られて、人間らしく一言でも反駁しようものなら、おれは明後日からまた失業だ。いっそ、そのほうがよかったのかも知れない。最悪だったのは、長身の子分とそのまた下っ端の小男が後部座席にふんぞり返ったのは客の勝手だからいいとして、坊主頭のチンピラが当然のように会釈もせずに助手席に乗りこんでしまったことだった。それぞれコーヒーとお茶の入った魔法瓶二本、お握りの残り一個、読みかけの英・伊の詩集二冊、文庫本一冊、それと原稿用紙、アーミーナイフ……、要するにおのれの生活必需品の一切合財が入ったリュックを、おれはいやいや助手席からどけて、股座に挟まざるをえなかった。しかも、いくら気が進まないからといって、それを露骨に顔に出したりしてはいけない。勘違いしてはいけない。ヤクザは下っ端ほど手が速いのだ。分別が無くて無礼で危険なのは、たいていは下っ端だ。親分や幹部は勘定高くて根がヤクザだから、上辺はともかく基本的に無礼で分別はさほど無くても、動作は鈍い、それが貫禄だと思ってやがる。チンピラは並みの人間よりはよほど動作が機敏だ、だからチンピラなのだ。ともかく発車した。相変わらず懐手のまま、横着な坊主頭のチンピラが口だけは幹部並みの重ったるさで行先を告げる。
「調布の深大寺へやりな」
《上、首都高・中央高速か、それとも地べたをか?》遅ればせにコースの確認にかかるこのおれに、チンピラが無言で顎をしゃくる。
《つべこべいわずに真っ直ぐいきゃあ、いいんだ。このタコ!》
 と、顔には画いてある。おれはついムカッとしてしまった。ふだんは軽薄に見えても存外、思慮深いこのおれなのに、ムカッとしてしまったときだけは、つい前後の見境もなくわれを忘れて、手か足が先に動いてしまう。このときもそうだった。深夜の甲州街道本道を時速百キロで驀進しながら、おれは何気なしにギアをニュートラルにして、アクセルをさらに踏みこんだ。
《助手席の坊主頭はどうする?》
 おれだって、瞬間、考えないではなかった。だが、もう遅い。おれの手と足は勝手に動いてしまっていた。異変はそのときも違わずに起きた。
《ブブーンルルルーンン》
 高速で空転するエンジンの確かすぎる振動とともに車内に一挙に緑色の光が満ち満ちてオゾン臭がたちこめ、膨れたボストンバッグから弾け出た夥しい万札の束が狭い空間を乱れ飛び、どさりどさりとダッシュボードに山積みになっていった。パラパラと小銭までが宙を飛んできて、チャリンチャリン、ざくざくと釣り銭箱のなかに納まった。
「てめえ、なにをしやがる!」
 助手席のチンピラはとっくに抜き出したチャカの銃口をおれの左こめかみに突きつけていた。ご丁寧にも左手は抜き身のドスでおれの股間を圧迫してきた。引鉄をまだ引かなかったのは、疾走中に運転手を射殺すれば、車がどうなるか、くらいは少ない脳味噌で少し考えて分かったからだろう。それでも後ろの兄貴分たちの異状に気がついたなら、それでも引鉄を引かないという保証は全然なかった。刃先を股間に平らに当てているとはいえ、抜き身のドスの強くなる一方の圧迫感のほうが、おれにはなお恐ろしかった。
《へたを売れば、明日からは男ではなくなってしまう》
 おれは眼を点にしながら、札束の山の間からヘッドライトの光に浮かびあがる前方の路面だけを注視して、チンピラが後ろを振り返らないことだけを願っていた。が、
「わっぁ」
「あぁっ」
 後部座席の長身、小男、二人があげた頓狂な悲鳴に、助手席のチンピラはおれのほうにのしかけていた坊主頭を後ろに振り向けるどころか、突きつけた銃口、押し当てたヤッパはそのままに、上半身を捩って後ろを覗きこんでしまった。見かけはごつくても身体のごく柔らかいやつだった。後部客席の足元には、異界への入り口が黒ぐろと大きな口を開け、すでに下半身を奈落に吸いこまれていた二人のヤクザは、見る間に上半身も吸いこまれて、赤あかと狭まってきたあちらへの入り口の毒々しい唇に残るは、救いを求めて宙に差し伸べられた四本の手、金のブレスレットを嵌めた手首、指輪を嵌めたごつい指、寸詰りの小指だけとなっていた。上半身だけ捩って後ろを覗きこんでいた身体の柔らかいチンピラがそのとき、ずるずると異界への入り口へ坊主頭から吸いこまれだして、早くも両足が宙を蹴っている。おれは深夜の甲州街道をひたすら西へと滑走中なのも忘れて、空いている左手でチンピラの白い靴の踵をほとんど閉じかけた異界への入り口へと押しやってしまった。
「持ってけ、三途の川の渡し銭!」
 おれは釣り銭箱の小銭を左手で一掴み、もううっすらと開いているだけの異界への赤い唇へ、後ろも見ずに投げつけた。振り返らなかったのは、終始、右手だけはハンドルから離さなかったのは、高速滑走中ゆえにできもしない車の制御のほうがはるかに重要だったからだ。バックミラー越しに朦朦たる白い煙、そのなかに足掻く三人のヤクザ、うち一人は逆さまになりながらなおチャカを盲撃ちしてはヤッパを振り回しているあの坊主頭のチンピラ、そのいまは小さくなったシルエットをしかと見てから、ようやくおれはギアをニュートラルからドライブに戻して、車の制御を可能とし、オーバードライブを解除して、後続車の有無を確認しながら制限速度まで減速してウインカーを点滅させ、ゆっくりと左寄りに車線変更していった。路肩に無事、停車すると、サイドブレーキを引いて、前を向いたまま額に両拳を宛がい、強く目を瞑って二度三度と深呼吸、それから、そっと後ろを振り返った。後部座席には、白いレースのカバーシートが白じろと耀いているばかりだった。後部フロアに異界への口が開いた痕跡は何ひとつなかった。がくがくと身体を揺るがす烈しい振動も、眩い緑色の光も、鼻を衝くオゾン臭も、すっかり消えていた。それなのにダッシュボードには山積みの万札の束が、前方視界を著しく妨げていた。おれは左手の肘から先の一振りで、札束の山をダッシュボードから払いのけ、助手席フロアに落としこむと、酔客の反吐用の黒いゴミ袋に札束をみな押しこんだ。酔客の反吐とヤクザの札束とどちらがどれだけ汚いか、分かったものではない。左足でゴミ袋を奥に蹴りこんでから、皺くちゃのハイライトを一本抜き取り、肺の底まで深ぶかと一服した。
 もう駄目かと何度も思ったが、なんとか切り抜けることが出来た。家さえ建てなければ、いまやおれは大金持ちだった。半分ぐらいは孤児院にでも寄付すべきだろう。慣れない事をしてしくじりたくなければ、通りすがりの保育所に札束一個を投げこむくらいで満足せざるをえない。それでもあそこはそれだけで、伝えられる経営危機を乗り切ることだろう。あとの使い道は、明けの日にゆっくりと考えるとしようか。結局、アシの付くことを恐れたこのおれは、無数の札束のたった一個を投げこむこともせずに、あの保育所のまえをすっと通り過ぎて、おのれのせこさ加減に舌打ちを打ったのだった。しかしその舌の根も乾かぬうちに、路地裏を飛び出してきた新聞配達のバイクを危うく躱したから、悠長に保育所に札束を投げこんでいたなら、間違いなくその姿を新聞配達少年に目撃されてしまったことだろう。ひとつ間違えば、厄介なことになるところだった。路地を回りこむころには、はや、夜は白じらと明けていた。郊外の白茶けた風景をヘッドライトの無用の明かりが虚しく照らすばかりだった。

「『キース・ジャレットの呻き声って素敵!』なんてのたまうチケットの客を鎌倉の外れで快適に落としたおれはFM放送に聴きほれながら朝日奈インター目指して雪ノ下あたりの夜道を走っていたんだ。と、夜目にも白い雪白美人が仄白い細腕をあげた。『銀座ね、博品館の裏あたり』『かしこまりっ』っておれは張り切ったね」
「ふむ、鎌倉往復か、日収の半分はそれで決まりだもんな」と、リュウ。
「で、『こっから高速〈横・横〉に乗りますね』って後ろを振り向くと、誰もいない! おれは焦って路肩に停めるなり、後部座席の女の尻の載ってたあたりに手のひらを押し当てたんだ」
「シートがじっとりと濡れていたんだろう?」と、〈火の玉小僧〉。
「よく分かるな、ヒンヤリして手首まで吸い込まれそうだった。悪寒が背筋を走って腰っ骨がポキポキ鳴ったよ。膝も笑ったことだろう」
「よくあることさ、酔客を送って帰りに多磨霊園を抜けると、木陰から手が上がる」と〈火の玉小僧〉「ドアを開けても誰もいない。あれは墓地の地縛霊だな」
「昨日なんか、バックミラーを見るだろう? 眼の端に何か映る。振り返るとシートから腕が生えていて『おいで、おいで』するんだ!」と、リュウ。「おれは急ブレーキを掛けてしまった。異界の口が少し開いただけのことだけど、異界からのお招きなんてゾッとしない」
「異界は大食漢なんだ。だけど太っちょばかり三人も立て続けに送り込んでみろ、運転手に『おいで、おいで』なんてしないから」〈火の玉小僧〉が請合う。
 さていまはこの図抜けてのっぽで若禿の〈火の玉小僧〉こと水田洋二、二十七歳、さして強くもないくせに、滅法、喧嘩っ早い優男の〈リュウ〉こと白浜竜次、三十六歳、そしてこのおれ、いつも花粉症のマスクをしている〈マスクマン〉こと具志吾郎、四十七歳、この三人がゴーストタクシードライバーの三羽烏だった。とはいえ、おれたち以外に、たとえば京王から来た、稼ぎはいいが事故だらけの、あの気のいい〈乱喰い歯〉こと堀切青年や、客に売られた喧嘩は必ず買う、深夜でもサンヴァイザーをしている〈サンヴァイザーマン〉こと大貫乗務員みたいに、なるべくはもっと若い世代のゴーストタクシードライバーが、日本全国に果たしていったいどれだけ散在しているのか――もっとも吉田みたいに、目下失業、免停中の猛者は別として――これはいまだ鋭意、確認中だ。これらのゴーストタクシードライバーを結集して、かつてのバルセロナのタクシードライバーたちみたいに、ネオ・ファッシズムに抗して、どれほどアナーキーな革命性を獲得できるかどうかは、誰にも分からない。
《まず、無理だろう》という冷ややかな師走の風だけが首筋を撫でてゆく。根っからのアナーキストは〈マスクマン〉のおれ一人だし、マスターの松井は頑固なマルキストだ。〈火の玉小僧〉はまるっきりのノンポリで、喧嘩っ早い〈リュウ〉は若干、思想性は認められるものの、いまひとつ分からない。フーテンの生田純にいたっては、左翼びいきではあるものの、時として右翼的言動もしれっとして恥ずかしげなく見せる、要するに政治的尺度では測れない、ただの詩人だった。ここ、荻窪北口、青梅街道北側に狭い口を開ける寿通りを入ってすぐ右手の〈くらふとB〉が果たして、若いゴーストタクシードライバーたちによる日本革命発祥の地となるかどうかは、いささか心もとない。おれたちゴーストタクシードライバーにとっては、通りすがりに憩う、単なる中継地に過ぎなかった。
 「ゴーストタクシー」といったって、なるほど清く貧しく美しい庶民の味方ではあるものの、しょっちゅう悪官僚や闇金融など、悪漢どもをゴーストにしているわけではない。常日頃はおおむね善良な市民相手に、地道な平常業務に明け暮れている。おおむね善良な客のなかにも厭な客はいる。特に酔客のなかにそういう手合いが多い。昨夜の坊主頭もそうだった。
「ちょっとこの人、酒癖悪いけど、吾郎ちゃん、おねがい。立川、栄町ね」 馴染みのスナック〈夕ぐれ〉のママに、そうまで言われては断れない。
「はいよ」
 学園通り、五日市街道から戸倉通りを抜けて立川へ入るまでに五、六度、目を覚まして、「おい、ここはどこだ?」と、後ろから耳元でがなる。それは良い。こちらの丁寧な説明も、みなまで聞かずにまた寝入ってしまう。それも良い。だが、寝入るまえに必ず、「遠回りしてやがるな」と、運転中で両手の塞がっている運転手の頭を、携帯電話で小突く。素面の相手なら、ただの一度でも許さない無礼をこの酔っ払いは五度、六度としてのけた。寂しげなネオンを背に、拝むママの姿を目に浮かべ、《これでもあの店には大事な客なのだろう》と、それも許した。しかし、いざ到着して、支払いを求めると、「遠回りしやがって、誰が払うか!」と、こうだ。料金を支払ってくれないのだから、仕方がない。無人交番は素っ飛ばして、西町まで戻って有人交番に突き出した。
 車を降りると、客が掴みかかってきた。坊主頭の大男の陰に隠れて、お巡りさんからは見えないのを見澄まして、おれは無言で掌底の水平打ちを、軽く決めてやった。ズブリ、おれの手のひらは、筋肉マンみたいな大男の腹筋に嵌って、一、二瞬、抜けなかった。両手をだらりと下げて跳び退ったおれは、瞬間、青ざめていたことだろう。「チェストーッ」気合ばかりは必殺の、示現流ばりの気合を放って、おれは掌から這い登ってくる気味悪い恐怖感を克服せねばならなかった。《無手で筋肉の塊の大男に挑むのだから、相手は酔っ払っていても五分だろう》おれは久方ぶりに一瞬の勝負におのれを賭ける気が体内に満ちてくる爽快感を味わったけれど、折悪しく一台のパトカーが到着して、パラパラと警官が走り寄ってきて、その場はそれでお開きとなってしまった。
 おおむね善良な客のなかにも厭味な客はままいて、車に乗りこむなり、行く先も満足に告げずに、
「殺す、殺す!」と、ほざく奴がいる。
「降りろ!」 深夜の中央高速下の側道に、若かったおれはそいつをおっ放り出してしまった。翌朝、石田町だかの組合長だかのそいつは、会社事務所に尻を持ち込んできた。あいにく、内装が手作りのマセラーティを一台、鎌倉街道で出合い頭にお釈迦にしてしまったばかりの、乗勤停止二日を喰らったその翌週のことで、どんな客、どんな事情であろうが、運転手に謝罪を強要する会社のくどい部長青年に、「世話になったね」と、こちらもケツを捲くらざるをえなかった。またも失業をくり返し、その間に、大病、大怪我も一度ならずあったのだから、収入の有無は別として昼夜を分かたず仕事をしているこのおれよりも、無いなら無いでさばさばと暮らしているかみさんのほうに、より重く負担はかかっていたはずなのだ。そんな辛苦のなかで子供三人を大学に入れて、長女と次男はすでに卒業して自立している。長男ばかりはいまだに理系の大学院に通っていて、「ちっとは稼いだらどうだ!」叱りつけるおれに、「子供は親の背を見て育つのだからね」とのかみさんの一言には、さすがのおれもグーの音も出なかった。
 一年後、国分寺のタクシー会社で、洗車中のおれの尻をいきなり蹴った交通機動隊上がりの新米指導員スーさんこと鈴木乗務員の金的に、振り返りざまおれの放った回し蹴りが見事に決まってしまい、《わざわざ狙いを外したのに、なまじ避けるからあんなことになる》と、内心ぼやきながら眺めていると、洗車場狭しとピョンピョン跳ね回る白髪のスーさんを尻目に、おれの肩を叩いて話しかけてきたのが、図抜けてのっぽで若禿の〈火の玉小僧〉こと水田洋二だった。大黒屋が組合を立ち上げたのはよいが、かつての友愛会顔負けの御用組合ぶりに、業を煮やして、会社と組合相手に二人して大暴れしたのはその直後のことだった。「実はな」と、ゴーストタクシー現象に始めて触れたのも、洋二のほうだった。おれはその頃、密かにゴーストタクシードライバーの国内ネットワーク作りに励んでいたから、渡りに舟だった。むろん、海外の仲間たちとの通信も絶やさなかったが。
さして強くもないのにやたらと喧嘩っ早い白浜竜次と出会ったのはさらに遅れて、その半年後のことだった。長かったスペアの期間がやっと明けて、初めて相番となったのが竜次だった。その竜次にも同じゴーストタクシー現象が起きていることを、洋二とおれの二人が知るのに、さして時間はかからなかった。その後、職場はそれぞれ異にしたものの、こうしてゴーストタクシードライバー、最初の三人組が結成されたのだった。

 その女が六本木も外れる飯倉片町の交差点付近でおれの車に手を挙げたのは、薄青い闇の迫りくる黄昏時のことだった。長身の女は明るい色の金髪を、吹きつのる青い風に惜しげもなく晒していた。空色の眸が強い光を秘めていた。
「はい、お待たせ。どちらまで?」
「できたら、そこから乗って、横羽線で横浜へ」
「はい、おまかせあれ」
 おれはきついUターンをこなしてきわどく首都高入り口に乗りいれた。キップを係員に渡して運転席の窓を閉めたとたん、ジバンシーともシャネルとも違う、女の身体そのものから発する、惹きこまれそうな、深い香りが車内に漂った。おれは不覚にもクラクラッとした。《この女だ。この女さえいれば、あとは何も要らない》宿命の女だった。その女が一瞬の香りで決定づけられるとは、おれとしては思ってもみないことだった。それだけ動顚していたといえる。うわの空で本線に乗り入れると、外車が二、三台、けたたましくクラクションを鳴らしながら、危うく躱していった。羽田を過ぎるまでには、みなきっちりと抜き返してやった。《おれの車を捲くるとは、とんでもない野郎どもだ》横浜公園出口を出て、女の指示どおり、通りの角を左、右、四、五回曲がって、「あっ、そこ」女の指し示す路地裏の建物の二十メートルも手前で、おれは急ブレーキを掛けた。がくんと身を乗りだす女の鼻先に、おれは強烈なロシア製催眠スプレーを吹きかけてやった。客席フロアに崩れ落ちた女を尻目に、おれはゆっくりと、その時代がかった建物のまえを通り過ぎ、鎧窓から顔を突きだす男の影も見えなかったが、すぐに路地を抜けて、大通りに出て、第一京浜に出た。むろん、〈回送〉でだ。遥ばる地べたを走って築地を抜けて勝鬨橋を渡るころには、日もとっぷりと暮れていた。黎明橋も渡って、おれは凱旋気分でトリトンを回りこみ、無意識にパルチザンの唄を口笛で吹き流しながら、同じ運河に架かる霽月橋をまた渡り、月島の路地裏に一件だけ曰くつきで売れ残っていた襤褸倉庫、いまはおれのガレージ兼アトリエにそっと車を滑りこませた。
 どさりと置いた。ほっそりとした身体つきなのに、非力なおれにはやたらと重い。リヤシートから抱えあげて、この簡易ベッドに落とすまでの十数歩で、早くも息が切れてしまった。皺くちゃなパックから最後の一本を取りだして口に咥える。火を点ける。紫煙が肺を満たす。吐きだす煙とともに、身体じゅうにしこった緊張がゆるやかに流れでてゆく。隅の折りたたみ椅子に腰をおろして、両足を投げだす。疲労の海に首まで浸かって、吹き抜けの貸し倉庫の高い天井を見あげる。ベッドのほうに目をやるのが怖いのだ。だが、見ないわけにはゆかない。裸電球に照らされて眩いばかりに耀く白い脚がそこにはある。長身の女には、いかにも狭いベッドだ。微かに呻いて、はみだした両足首を動かしている。膝を「く」の字に曲げると、どうやら踵がベッドのうちに収まった。おかげで真っ白なスカートがめくれて、白い太腿が露わになった。奥にパンティの空色の膨らみさえ覘いている。
皺だらけのシーツのうえに、清楚な衣装をまとった若い肉体が、神々しいばかりに息づいていた。名も知らぬ香水の香りさえ、仄かに漂ってくる。指もとまで吸ったタバコを灰皿がわりのホイールカバーに押しつけて、やっと女に近寄った。微かな寝息が女の生きていることを保証している。ほつれた金髪が青白い額にかかって、ぞくりとするような美しさを放っている。閉じたままの瞼のうえにそっと口づけした。すらりとした鼻の天辺にも、形のよい唇にも、そっとキスした。女は幽かに微笑んでいた。きっと、モスクワ郊外で恋人と交わしたファースト・キッスの夢でも見ているのだろう。素肌に触れないように、指先に細心の注意をこめながら、左足だけ黒いガータを外す。ブルーの網目ストッキングを、爪先まで剥ぐ。とても「くるくるっと手早く」とはゆかなかった。白い長い長い素足がおれのものとなった。身を屈めて、女の左足の親指をそっとしゃぶる。とりたてて味はしないが、心もちしょっぱいような気もする。人差しと足の指でもいうのかは知らないが、ともあれ、その指をしゃぶる。左足の親指と人差し指を押し広げて、その股を舐めあげる。女が微かに呻く。ほっそりした脛からふくらはぎ、膝裏、眩い太腿、真っ白なスカートの奥へ、その空色の膨らみへと、熱く火照った視線を泳がせる。時間はたっぷりとある。小指まで、左足の五本の指を存分にしゃぶり、四つの谷間を存分に舐めあげてから、おれは睡眠薬を二錠とコップ一杯の水を口に含んで、女の顔のうえに屈みこみ、口移しに飲ませてやった。ゴクリゴクリと女は細い喉を震わせて、一滴残らず、おれの口からコップ一杯の水と睡眠薬二錠とおれの唾液を飲み干した。真っ白い歯の間に垣間見えたピンクの舌先がたまらなく可愛かった。おれの舌は逃げる彼女の舌を追って、いつまでも飽きなかった。おれは女の左足の踵におのれの右手を添えて、そっと目の高さまで持ちあげた。白いスカートが大きく割れて、空色のパンティが丸見えになる。その膨らみの下には、うっすらと幽かに金色の翳りが息づいていた。
 おれは唇を女のほっそりした脛からふくらはぎ、膝裏、眩い太腿へとゆっくりと這わせていった。蝸牛の通った跡にも似て、おれの唾液が女の肌のうえに、白い航跡を伸ばしてゆく。モンターレの詩にもあったっけ、その蝸牛の曳く航跡は、世界の終末を予感させるのだけれども。女の左膝裏に右手を強く宛がって、膝頭をふっくらとした左胸に押しつけ、浮いた太腿の付け根を、空色のパンティのすぐ右脇を強く吸う。赤い最初の星が現れるまで、強く吸いつづけた。吸い終わったときには確かに女の血の味がした。白い腿の付け根に、やや濃い肌色を帯びた谷間の翳りに、こうして一番星が徴された。おれは両手で、女の白い長い長い素足を、ほっそりした脛からふくらはぎ、膝裏、眩い太腿へと擦りあげた。そうして赤い二番星を谷間の翳りに、一番星のすぐ下に徴すころには、一番星はすでに菫色に変じていた。おれは両の手のひらを広く使って、女の白い太腿の付け根のうっすらと翳りを帯びた谷間を下から上へ、空色のパンティ越しに、微かに湿り気を感じるまで、何度も撫であげた。それから顔を近づけて、空色の膨らみの匂いを嗅ぎ、女の匂いを確かめた。香り確かなブルーチーズの匂いまで嗅ぎ分けた。鼻の頭で湿った空色の膨らみを押し上げ、額で押し下げる。どれほど長くそうしていたことだろうか。刺すような喉の渇きを覚えて、おれは蛇口からじかに口のみすると、手の甲で口もとを拭いながら、折りたたみ椅子まで戻って、タバコを探ったが、最後の一本はついさっき、指を焦がすまで吸ってしまっていた。あとは手巻きのゴールデン・ヴァージニアしかない。左手の人差し指と中指のあいだにリズラ紙を挟んで、ヴァージニアタバコを少なめになるべく均等に置く。多く置きすぎると強すぎて、むしろ味が分からなくなる。ほんとうはこのヴァージニアこそが、本当のタバコなのだ。この香りを嗅いだなら、ほかの紙巻タバコは紙でしかない。「最近の何ミリとかいうタバコはみな、ニコチンを紙に滲みこませた偽タバコさ」と、その日の朝方、牛込柳町でたまたま乗った客が、両切りピースの煙を吹きかけながら、運転手のおれに言う。
政府と専売公社の悪辣、厚顔無恥ぶりには呆れて、ものも言う気にならない。元来、貧乏人のこのおれは、天引きの直接税とガソリン税と重量税と酒税とタバコ税と消費税とで、関税その他、十指にも余る税金の何重取りかで、何十年にも亘って政府に苦しめられてきた。この借りはいずれ、きっちりと返さずばなるまい、男ならば。
 ふと目を下に落とすと、おれの股間の男がズボン越しに、天を衝いて猛り狂っていた。こいつで政府をやるわけにはゆくまい。心あるアメリカ人は、イラクでの自国軍の非道に怒って、「ファカス・ブッシュ!」なんて、ほざいているが、ブッシュにしろ、小泉にしろ、とてもアスをファックしたいような相手ではない。いくらおれが悪趣味だって、まだそこまでは辿りついてはいない。少しも愛着を覚えない相手と、どうしてファックできるのだ?《おい、おまえの相手はそこにいる。だが、まだお預けだ、慌てるな!》おのれの股間のど外れた膨らみを眺めながら、なんだかおれは愛犬を焦らしているような気分に囚われていた。

 おれは両手で、女の白く長い長い素足を、ほっそりした脛からふくらはぎ、膝裏、眩い太腿へと擦りあげた。そうして赤い二番星を谷間の翳りに、一番星のすぐ下に徴すころには、一番星はすでに菫色に変じていた。おれは両の手のひらを広く使って、女の白い太腿の付け根のうっすらと翳りを帯びた谷間を下から上へ、空色のパンティ越しに、微かに湿り気を感じるまで、何度も撫であげた。それから顔を近づけて、空色の膨らみの匂いを嗅ぎ、女の匂いを確かめた。鼻の頭で湿った空色の膨らみを押し上げては、額で押し下げる。どれほど長くそうしていたことだろうか。微かなうめき声が聞こえ、空色の膨らみの麓から、ひと筋、透きとおった小川が白い太腿の雪野原を流れてきた。おれは白い雪面におのれの罅割れた唇を押しつけて、音を立てながら啜った。気のせいか、女の白い太腿にわずかに赤みがさしてきたように思えた。おれは泉から溢れだした生命の水をことごとく啜りおわると――女の白い太腿のうっすらと翳りを帯びた付け根には、おれの唾液だけがモンターレの蝸牛の通った跡にも似て、螺旋を描きながら白じらと航跡を伸ばしていたが――いつしか空色の膨らみの薄い布地に、右手の人差し指と中指だけを潜らせて、ピアノを連弾するかのように、小刻みに叩いていた。水辺を叩くこのおれの耳のなかには、鋭く、悲しく、あくまでも澄み切って、ショパンの遺作ノクターン嬰ハ短調が鳴り響いていた。しかし、上から眺めると、空色の膨らみの下で、何者かがもぞもぞと蠢いているだけのようにも見えた。おれは左手の人差し指を空色の薄い布地の縁に引っかけて、一気に下へおろした。抗いようもなく現れた黄金色の茂みに、ひたとおのれの罅割れた唇をつけて、ざらつく舌を舞わせていた。やがてすっかり黄金色の茂みの丘が露わになるように、空色の薄い布地をさらに引き下げると、右手の人差し指一本で、丘の茂みに隠された泉を探った。女がまた呻いた。ゆたかな水源を探りあてた指先は、泉の全体を露わにすることもなく、そのまま深ぶかと根元まで、奈落の底を探っていた。底近くに粗い砂粒の層を見つけると、もうそこを離れようとはしない。仕方なく親指の腹が、隠された泉の畔を彷徨って、濡れそぼる秘密の花園の全体像を次第に露わにしていった。待ちに待った観音様、ご本尊のご開帳だった。一段と強まる馨しい匂いに惹かれて、脂汗を滲ませたおれの鼻先がまた近づいてしまった。おれはおのれの思いを断ち切るかのように、空色のパンティを女の形のよい臍の下、拳ひとつまでようやく引っ張りあげた。なお思いを断ち切れないかのように、人差し指が空色の膨らみの上から泉のあたりをいつまでもなぞっていた。やがて空色の薄い布地の真ん中に、うっすらと湿った一本線が滲みでてきた。馨しい匂いがさらに強まる。おれは女の腰を抱えてうつぶせにした。形のよいゆたかな尻が目のまえに盛りあがっていた。白いスカートを腋の下までずりあげると、広大な真っ白い背中が露わになった。水色のブラジャーの紐まで見えていた。ただ、裏返しとなった白いスカートに覆われて、おかっぱの金髪も、細い首筋も。美しいその顔までも視界から消えていた。 両手を女の腹とシーツのあいだに潜らせて、女の尻を高々と掲げさせた。目のまえに、狭くて薄い空色の三角の布地だけに護られて、はちきれそうな白い小山ふたつと、真っ白い大理石の太い柱にも似た太腿が聳えていた。掌で背中を強く押しつけると、はちきれそうな白い小山がいっそう強調されて、眼前に迫ってきた。うっすらと湿った一本線も。心なしか帯状の湿ったやや濃い水色の幅がいささか広がった、その一本線を、親指の腹で強く何度も螺旋を描きながら擦りあげると、意識はないはずの女がいまさらのように切なく喘ぎ、一段と翳りを増した一本線を中心に、濃い水色の帯があたりに広がった。いつしか空色の膨らみの薄い布地に、右手の人差し指と中指だけを潜らせて、おれの指先はバッハのシャコンヌを心ゆくまで奏でていた。しかし、上から眺めると、白い小山ふたつの谷間で、空色の膨らみの下で、何者かがもぞもぞと蠢いているだけのようにも見えた。おれは左手の人差し指を空色の薄い布地の縁に引っかけて、一気に下へおろした。気がつけば、抗いようもなく現れた黄金色の茂みに、ひたとおのれの罅割れた唇をつけて、ざらつく舌を舞わせていた。
 やがて、すっかり黄金色の茂みの丘が露わになるように、空色の薄い布地をさらに引き下げて、真っ白い大理石の太柱二本にも似た太腿のなかほどまで押し下げると、右手の人差し指一本で、丘の茂みに隠された泉を探った。女がまた呻いた。ゆたかな濃密な水源を探りあてた指先は、泉の全体を露わにすることもなく、そのまま深ぶかと根元まで、奈落の底を探っていた、粗い砂粒の層への郷愁に駆られるままに。仕方なく親指の腹が隠された泉の畔を彷徨って、濡れそぼる秘密の花園の全体像を、今度は逆さまに、次第に露わにしていった。観音様も逆立ちしていたことだった。一段と強まる馨しい匂いに惹かれて、脂汗を滲ませたおれの鼻先がまた近づいてしまった。両の掌で白い小山をふたつに分けると、谷間に、濡れた紅の花園のまうえに、杏色の菊の花びらがひっそりと息づいていた。溢れる泉に浸した小指をそっと、その杏色の菊の花びらに置き、さらにその奥へと潜らせる。次いで、薬指、中指、人差し指と、同じことをくり返したあげく、水も滴る親指を、根元まで挿し入れてぐるりと回した。ゆっくりと抜くにつれて、杏色の菊の花びらが一枚一枚めくれて、薄いピンクの花びらの裏が露わになった。その薄いピンクの花びらの祠に、おれはふうっとタバコ臭い息を吹きかけてやった。

 ついそのときまで、なるほど緑色の上着こそ脱いで、折り畳み椅子の背に掛けはしたものの、安物の赤ネクタイをだらしなく緩めただけのこのおれは、鼠色のチョッキをかなぐり捨て、連日の激務に膝下まで前の部分が薄白く褪色してしまった鼠色のズボンも脱ぎ捨てて、やっとお仕着せの仕事着から解放された。ついでにステテコもシャツ、パンツも脱ぎ捨てて、不毛な日常性からも、常日頃、おれたちが金縛りの職業倫理観からも、完全に解放されてしまった。ズボン、ステテコ、パンツを脱ぐ際に、困難を覚えたほどに天を衝いていたおれのそのものは、いまは晴れて怒髪天を衝くさまを誰に恥じることもなく具現していた。たった一個の白熱灯の輝く襤褸倉庫のなかで、四隅に薄闇の蟠る殺風景なアトリエの真ん中で、あたりを圧して、睥睨してさえいた。それどころか、尖端はすでに緊張の極みを超えて、小刻みに細かく震えてさえいた。《あまり焦らすと、肝心なときに早々と終えてしまうぞ》と、そのものはおれに告げていた。おれは素直に素っ裸のまま、高々と掲げられた女のゆたかな尻に近づくと、両手いっぱいに真っ白なふたつの山を掴んで、上下左右に揺さぶって揉みくちゃにしてやった。谷間のふっくらした丘の麓で、黄金色の茂みの奥から泉が溢れて、露が糸を引くように滴り落ちては、皴だらけのシーツを濡らした。ずぶりとおれはおのれのそのものを泉の真ん中に根元まで貫きとおした。溢れ返った泉はおれの臍まで飛沫を飛ばす。意識はないはずなのに、女はいっそう切なげな声を漏らすと、さらに奥へと誘うかのように、ゆたかな尻を揺すりあげてきた。
 このときばかりは薄情に、おれはおれそのものを一気に引き抜いてやった。「あ、あー」と、深い喪失感に、長い溜め息を女は漏らす。そのものは固く、粘つく雫に濡れそぼっているばかりか、濁ったひときわ濃い露の跡さえ斑に表面に残して、冷え冷えとした倉庫の空間に、湯気を立てながら怒張していた。金髪を掴んで女の上体を起こさせると、薄く開いた唇におのれの舌を深ぶかと挿し入れて、唾液を吸った。意識があろうとなかろうと、女も舌を舞わせてそれに応えた。おれは女の裏返ったままのスカートを剥ぎ取り、シャツ・ブラウス、黒いキャミソールを剥ぎ取って、水色のブラジャーと右脚のブルーの網目ストッキングだけを残した。すっかり全裸にするよりもそのほうがより刺戟的だった。空色のパンティも、右膝を潜らせて右足だけは抜け出させたものの、素足の左足の足首に纏わりつかせたままにしておいた。左手で女の金髪を掴んだまま、深い口づけを交わしながら、おれは右手を女のブラジャーに潜りこませて、左乳房を強く揉みしだく。ブラジャーの左半分だけを押し下げて、左乳房だけを露出させた。ぷるんと飛びだしてきた乳房は驚くほどに弾力があり、その量感は圧倒的だった。小さく濃いめの乳輪の真ん中に、乳首が固くなっていた。親指と人差し指で摘まんで、それを指の腹に転がすと、女の背筋に、何度も震えが走った。おのれの屹立するもので頬を叩くと、女はそれを喉元深くまで吸いこんで、烈しく噎せた。女の唾液の尾を引くそのものを、こんどは杏色の菊の花びらに宛がって、いっきに貫いた。女は短く悲鳴をあげた。
ゆっくりと引き抜きにかかると、杏色の菊の花びらがめくれて、少し血の滲んだ薄いピンク色の花びらの裏が露わになって、薄白いピンクの花びらの祠をおれの眼に曝した。ふたたび前の花園を貫き、ゆっくりと抜いては、後ろの狭い庭に押し入った。無限にそれをおれはくり返した。
 女は背筋の震えが止まらないみたいだった。おれはふたつの白い小山を左右に押し分けて、金色の茂みに囲まれた小さな湖から、心ゆくまで生命の水を飲み干した。それでも溢れ出る水は尽きることなく、おれの頬を、顎を、鼻を濡らした。おのれの大砲と袋の根元深くに耐え難い脈動を覚えたおれは、杏色の菊の花びらを貫いて、烈しい腰の律動に身をゆだねた。いまは女も自らの烈しい腰の律動に身をゆだねていた。殺風景なガレージに、女そのものの芳しい匂いが濃密に溢れた。濡れた蛇腹に締めあげられるみたいな感覚を急に覚えて、おれは果てしない奈落の赤い闇の天井に、おのれの精を夥しく打ち上げていた。女は長く尾を引く低い悲鳴を漏らしながら、尻全体を小刻みに震わせている。水色のブラジャーと右脚のブルーの網目ストッキングも脱がせて、ようやく女を全裸にすると、身体を仰向けに伸ばしてやって、軽く口づけをした、いくども。ふっくらした丘の茂みに左手をそっと載せたまま、おれはいつしか寝入ってしまったようだ。仄かな痙攣の余韻を互いに愉しむかのように、ふたり並んでまどろむのは、どれほど深い安らぎであったことだろう。

 目を開けるとそのまま、おれは倉庫のやけに高い剥き出しの屋根裏を眺めていた。電球は煌々と点けっぱなしだった。さもなければ、朝までこのまま眠ってしまっていたかもしれない。ふと気がつくと、女の寝息がしない。見れば女もうっすらと目を開けていた。だが、その水色の眸に、強い光はまだ宿っていない。無理もない、おのれの置かれた状況が、まだまるで分かっていないのだ。
「おれは白浜竜次、〈リュウ〉と呼んでくれ」
「あたしはガブリエッラ・デステ、〈ギャビー〉と呼んで」
 夢のなかでのように、それだけ言うとギャビーはまたすやすやと寝息を立てていた。懸念しかけた睡眠薬の効き目は、やはり確かなものだった。もっと話を続けたかったのに、と惜しくもあった。念のために、おれは睡眠薬を二錠とコップ一杯の水を口に含んで、ギャビーの顔のうえに屈みこみ、口移しに飲ませてやった。ゴクリゴクリとギャビーは細い喉を震わせて一滴残らず、おれの口からコップ一杯の水と睡眠薬二錠とおれの唾液を飲み干した。真っ白い歯の間に垣間見えたピンクの舌先がたまらなく可愛かった。ギャビーの左右の太腿を両肩に分けて担ぎあげると、早くも固くなったおのれ自身を花園の奥に宛がって、いっきに貫いた。美しい寝顔に見惚れながら、そのまま烈しく腰を使って、また果てていた。仕事に戻るなら、まだ済ませねばならないことがある。ほっそりとした身体つきなのに、大柄なギャビーは非力なおれにはやたらと重い。簡易ベッドから抱えあげて、この便器に向こう向きに坐らせるまでの数歩で、早くも息が切れてしまった。シーツの下にビニールシートを敷いて戻ってきても、何もしていない。熟睡している。洗車用のホースを引っ張ってきて、ビデ代わりに洗ってやった。それからホースの口から拳ひとつ下を「く」の字に曲げてほどよく強めた水流を、ギャビーの尻の穴に当てた。しばらくすると、迸る水流のなかに、ボートの舳先みたいに薄茶色いくその頭が垣間見えてきた。呆れるほどに立派なそのものをぽとりと水面に落として、ギャビーは健やかに眠っている。たんと小水も済ませたギャビーを抱きかかえて、おれはよろめきながらベッドに戻った。《よい子だ、ギャビー、ベイビー》市販のワッパでギャビーの四肢をベッドの四隅に固定すると、裸の美しい肢体を飽かずに眺めながら、おれはそそくさと制服を身に着けた。《大人しく、おねんねしてな、ギャビー》毛布を掛け、電気を消し、エンジンを掛けると、営業車を路肩に出し、倉庫のシャッターを下ろして厳重に鍵をした。銀座の外れから麹町まで一人、新橋から溝口まで一人、渋谷から烏山まで一人、都合三人の酔客を拾っただけで、早や白みゆく薄青い闇に追い立てられるかのように、おれは帰庫した。洗車して、納金を済ますと、おれは脱兎のように自家用の濃緑色のスカイラインをぶっ飛ばして、月島に眠る愛しいギャビーの許にとんぼ返りした。
 シャッターは猫一匹通れるような隙間を残して閉じていた。鍵は無慚にも壊れている。用済みのジャッキが内側に転がっていた。ベッドのうえにはワッパ四個が空しく転がっていた。ベッドの下にも、便器の陰にも、どこにもギャビーはいなかった。食器棚に無造作に転がしておいた三百万円の札束も、冷凍庫に隠しておいた残り七百万円の札束もきれいに消えていた、解凍しなければすぐには使えないのに。そのほか、冷蔵庫からは草鞋大の厚切り黒毛和牛ビーフ一枚が消え、棚の封を切っていなかった十八年物のワイルドターキーは、半ば空になっていた。無断で使ったらしい食器も洗っていない。ギャビーは消えてしまった。愛しいギャビー!メモの切れ端一枚ない。

 長いあいだ密かに捜し求めつづけてきた天使みたいな女、それが一瞬の香りで決定づけられてしまった宿命の女ギャビー、ついに天使の翼を掴まえた、ついに天使をおのれのものにしたと思う間もなく、するりとおれの掌を潜り抜けて、半日足らずのつかのまの抱擁も嘘かとばかり、永遠に姿を消してしまった宿命の女ギャビー!深い喪失感に打ちのめされて、おれは腑抜けのように半月ばかり、ひたすらタクシーの平常業務をこなしていた。いつもうわの空で、事故を招かないのが不思議なくらいだったが、稼ぐ気がまったく失せてしまえば、事故のほうがおれから逃げ出すみたいだった。深夜の交差点を渡りながら、赤信号だと気づいたときにも、突っ込んでくる単車一台いなかった。ギャビーのせいで、にわかに見舞われた窮乏状態、久びさの一文無しのありさまが傷心のわが身にはいっそ心地よく、ゴーストタクシー稼業も青タンの深夜に三回限りしか働かなかった。
 朝方、都心へ向かう車列のなかで、信号待ちの際にポットの珈琲を飲んだり、手巻きのドラムを手早く巻いて一服したりするのはいつものことだが、詩を読むのもまたいい。次の信号待ちのときまで、たった一つの詩行を胸中に深く反芻していられる。いつのまにか、諳んじてしまう。青だ。
《トゥ・マイ・グァルダート・デントロ》どういう意味だろう?しかし、なんという心地よい響きの連なりだろう!赤だ。《ネッロスクリタ・デッレ・ヴィシェーレ――》青だぞ。……また赤だ。《ネッスーノ・ア・ラ・ミア・ディスペラツィオーネ》青。赤。《ネル・スオ・クオーレ。》
 京王線烏山踏切なんぞは最高だ。まるごと詩連を、ワンパラグラフを読み切れるし、充分、クァジーモドの詩想に浸りきって、どうかすると、直訳・試訳が上下の列車通過待ちのあいだに出来上がっていたりする。
《おまえはおれの心の内を覗きこんだ
 臓腑の闇の底まで――
 誰もおれほどの絶望を抱いてはいない、
 おのれの心の中に。》
 もう一本、列車待ちが出来れば、最後の詩連、最後の二行まで読み終え、訳し落とせてしまう。
《ソーノ・ウン・ウォーモ・ソーロ、/ウン・ソーロ・インフェルノ。》
《おれはたった独りの男だ、/たった独りの地獄だ。》
 この最後の詩連を読み終え、脳中に訳し終えた瞬間、おれはアクセルを床まで踏みこみ、踏切遮断機のバーが車の屋根をガンガンと叩き、轟音とともに列車運転席が圧し掛かってきて、列車前輪の鋼にタクシー運転席のドアもろとも、おれの肝臓は轢き潰されていた。おれは固く瞼を瞑り、そっと開いた。遮断機のバーは依然、目のまえにあった。ただの白昼夢だった。ギアはドライブのまま、ブレーキを踏む左足に少し力を加えて、おれは振り返る。右足は相変わらずアクセルに載せたままだ。「急ぐたって、お客さん、電車と喧嘩したって勝てっこないっすよ」
 喪って初めてそれが本物の恋であったことに気づいた迂闊さ加減ばかりはおれ生来のもので、少しも変わっていなかった。心にぽっかりと空いてしまった空白を埋めるすべは何ひとつなかった。ただ日常性のルーティーンだけがおれを、おのれの抜け殻を辛うじて支えていた。週に一度だけの公休の日には夜明け前から昼近くまで、霽月橋中央に画架を据えて、何の変哲もない運河上の眺めをまえに、ナイフで掬った暗い絵の具を画布に厚く重ねるのだった。ガレージの床にはいつのまにか大小さまざまなカンバスが所狭しと並んでしまったが、雨の日も風の日も、いずれもあの橋の真ん中から前方の風景を描いたものだった。あらゆる暗い色彩を重ねた意外なほど高く膨らんだ川面が画布の大半を占め、左隅にはいまにも崩れかかってきそうな超モダンなトリトンビル、右隅には苔むした代赭色のマンション、その下の堤防沿いに薄汚れた船溜りに係留中の曳き舟とモーターボート。正面上方には動く歩道を収めたトリトンブリッジが黎明橋と重なって横たわり、さらに上方には遠く霞んだ工場・倉庫群のシルエットが遠景を成して、海への出口を阻んでいる。これら数十枚の絵はその暗い色調、画中を吹き渡る蒼い風、画布の背後に深く淀み蟠る画想、ただの一枚として同じ絵はないけれど、テーマはただひとつ、〈海の予感〉である。おれの画家としての全存在はただひとつ、この〈海の予感〉のなかに暗く塗り籠められている。
 短い昼寝から覚めれば、休憩にも似た読書の時間だ。偏執的に横文字ばかりを読む。イタリア語・英語の書籍が大半で、フランス語は詩集だけ、スペイン語やロシア語の書籍はめったに読まない。丁寧に語学の勉強をし直すほどの暇はいまはないからだ。日本語での読書はタクシーで客待ちの細切れの時間帯に追いやられて、著しく虐待されていた。だからといって、遠慮がちに扉を叩く客にドアを開けないわけにもいかないではないか。夕食を兼ねた下駄履きの運河廻りの散歩から戻ってくれば、あとは夜明け近くまで執筆の時間だ。精根尽きて、二、三時間眠ると、もう出番の朝だ。眠気を抑えてハンドルを握るけれども、心配は要らない。昼飯後にどこであれ、青山墓地あたりが比較的多いけれど、車中でたっぷり仮眠を取るからだ。気がつけば、日もとっぷりと暮れていた、何てこともままある。こんな日常性だけが、ギャビーを喪ったおれの心の空白をわずかばかり癒してくれていた。さもなければ、どうして生きつづけていられただろう。おれの想いにだって清冽なものがひと筋くらい流れているだろうが、それは伏流水にも似て、乾いた砂地の地底深く潜り込み、おのれの意識の地表に浮かび上がり取り残されているのは、ただ乾涸び張り裂けた犬や猫の冷たい骸ばかりだ。相変わらず『幻のアナーキスト戦闘団秘史』(全五巻)を書き溜めてはいた。しかしどうやらそれがおれのライフワークどころか、未完の遺作になってしまいそうな、暗い予感が端からつきまとう。いつの日にか、白浜碧のペンネームで出版されるはずの長編小説カルテット・エレーティコ、異端的四部作のうち第二作までは、すでに推敲もあらかた終わって、タイトルも仮題ながら決まっていた。本能寺の変を辛うじて回避した信長が、光秀と秀吉を駆使して、日本の大航海時代を現出する異端的信長戦記、そこに水陸に活躍する剣豪愛洲移香斎の三人の異母孫、春香、秋香、夏香が絡む『光の漂流』、と。ペルシア大王ダリウスと急遽、和解・同盟したアレクサンドロスが西進、好敵手ローマを撃破、結局は良き協力者として、地中海世界から四方に版図を拡げる異端的アレクサンドロス戦記『空色の炎』、と。あとの二作も仕上げれば、残されたおれの夢は、できることなら後世に遺る長詩数篇を収めた薄っぺらな詩集『白浜碧詩集』、ただ一冊と、たった一枚の絵〈海の予感〉だけを残して、そしてさらにできることなら、ギャビーの膝枕で、眠るがごとく大往生を遂げることだけだ。随分と欲をかいたものだった。だからと言って、《願わくば花の下にて春死なん/その如月の望月のころ》と詠った、西行先輩ほどの大欲張りでもなかった。そのかつて詠んだ歌どおりに、満開の桜の木の下で、恋人にも似た満月の光に浩々と照らされ包まれて、天寿を全うするなんて、武人にして放浪法師、歌人西行は詩人としても相当に凄いと思うが、いままたギャビーを失い、碧の眸の詩神にも見放されたこのおれは、日々、焦燥に身を焼くばかりだった。結果、心の空白に胸が張り裂けそうになりながら、昨日も今日も明日も明後日も、夜明けまえの薄青い闇を衝いて、東京の下町、山の手、三多摩、埼玉、千葉、横浜の路上を、白梟の低く翔けるにも似て、ひたすら走り回るほかはないのだった。
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 渋谷から〈246〉は青山通りのデカマラビルの角を右に折れ、六本木通り方向に車の頭を向けたとたん、滅法美しい金髪白人の大柄な女が手を挙げた。《シャラポアか、いや、丈こそ違え、白い妖精コマネチの再来か?》スーッと車を寄せて、後部左扉を開けた。シートに腰をおろした彼女の現実の重量感がおれの背中を圧した。
「どちらまで?」
「青山墓地を抜けて、赤坂まで」
《妙な、いや妥当な道筋かな?》と、思う間もなく車を出して、メーターを入れた。どのみち、赤坂へ何事もなく着くことはないのだ。《ターラ・ラ・ラン、タ・ラ・ラ・ラーララ、ターラララン、タラ・ラ・ラー・ララ》寄せくる懐かしいテーマ・ミュージックの海におれは首元まで浸かっていた。フロントガラスいっぱいに、吹雪の大雪原が目に浮かぶ。林立する赤旗。不意に地の底からどよめくインターナショナル!顔貌こそ違え、女はおれにとってはララそのものだった。《パステルナークを、彼の詩をどれほど愛したことがあるというのだ、このおれが?ともあれ、夢にまで見たララ!》墓地中央の十字路手前で、スーッと路肩の木立の下に車を寄せた。訝しそうに空色の眸を大きく瞠った女の鼻先に、おれは強烈なロシア製催眠スプレーを吹きかけていた。夜空に眩い六本木ヒルズの天辺の灯火ばかりがおれの犯行の目撃者だった。女は客席フロアに崩れ落ちることもなく、そのままシートに深ぶかと身を凭れかけていた。《眠った女を運ぶのは珍しいことじゃない》
 おれはそのまま乃木坂陸橋をくぐり抜け、そこまでは約束どおりに赤坂の車の雑沓を掻い潜り、山王に出てからは、一転、溜池交差点を左折、濠端を右折して、あとはまっしぐらに晴海通りを突っ走った。勝鬨橋橋詰の新築賃貸マンションの地下駐車場に営業車をぶち込むと、おれは軽がると美貌の大女を抱きかかえて、エレベーターで最上階のおれのフロアに昇った。ゴーストタクシーの売り上げで、竜次はどういうつもりか、運河沿いの襤褸倉庫を買い取ったけれど、おれはこのマンションの最上階を買い占めただけだ。東京湾と隅田川を眼下に見下ろし、やがて真っ赤に染まった朝焼け富士を遠く眺めることになるこの寝室で、おれはおもむろに女の衣服を脱がして、黒いブラジャーとパンティを引き千切り、一糸纏わぬ裸にした。おれが両脚を抱えあげて貫いたとき、低く漏らしたうめき声とともにララは薄目を開けておれを凝視した。「ララ!」甲高い叫び声を続けざまに発して、手足ばかりか腹も腰もバタつかせるララを、おれは苦もなく押さえこんで、なおも激しく腰を打ちこんだ。チャプチャプ音がして、ララの甘い匂いが部屋じゅうに満ちた。射精寸前に腰の動きを止めて、枕もとのジタンを一本引き抜き、火を点けて肺の底まで吸いこんだ。いまは大人しくなったララが拡がる紫煙の下で、空色の眸を瞠って、しきりに瞬きしている。おれは火の点いたジタンを歪んだ美しい唇の端に咥えさせてやった。「バシッ」強烈な平手打ちがおれの左頬に炸裂した。自由になった右腕をララがすかさず使ったのだった。おれはベッドから転げ落ちそうになったが、おのれ自身は頭三分の一ほどを残してララとの結合を保っていた。両肘両膝でララをベッドに釘づけにすると、おれはララを地芯に向けてなんども貫いた。尖端は子宮口に達したことだろう。
歪んだ美しい唇の端からジタンを抜き取ると、一口ふかして、烈しく脇腹めがけて突き上げてくる左膝を躱しざま、「ジュッ」と、火の点いたままのジタンをララの秘所に突き刺した。それで悶絶するほどやわなララではなかったが、女体の芯に闖入した突然の灼熱に、身体の力は抜けていた。ふたたび大人しくなったララの真っ白い大きな身体を裏返し、尻を高々と掲げさせた。白い小山を左右に押し広げると、谷間の真ん中に濡れた桃色の菊の花びらがこぢんまりと震えていた。固く小刻みに震えるおのれ自身をゆっくりと挿入していった。スラブ系の意味不明の言語を発しながら、ララがむせび泣くころには、おれは激しく腰を使っていた。津波のような愛液が袋の付け根に押し寄せてきたとき、おれはララの赤い闇の天井に向けて長々と精を放っていた。東京湾上の青い闇は早くも白みかけていた。
 後ろ手にした両手首と、ほっそりした白い足首に、市販のワッパを掛け、ベッドに転がしたままのララをまえに、おれは二箱目のジタンを燻らし続けていた。《ようやくおれのものになった美しい、愛しいララ!》今日はアケで、明日は公休だ。時間はたっぷりある。だが、稼ぎはともかく、仕事を続けるつもりならば、営業車だけは返してこずばなるまい。咥えタバコで、裸のララを眺めながら、おれはそそくさと制服を着こんだ。金髪を左手で掴んで、美しい顔を仰向かせ、睡眠薬を二錠とコップ一杯の水を口移しに飲ませてやった。ゴクリゴクリとララは細い喉を震わせて一滴残らず、おれの口からコップ一杯の水と睡眠薬二錠とおれの唾液を飲み干した。真っ白い歯のあいだに垣間見えたピンクの舌先がたまらなく可愛かった。ついそそられて、おのれの一物を心ゆくまでしゃぶらさせたあと、乾いた菊座と水浸しの陰門を、またも交互に貫かずにはおられない。それでも霞ヶ関から首都高に乗って高井戸出口で降りるのに二十分、三十分後には無事帰庫して、洗車、納金を済ませて、おれは純白のアキュラで首都高をとんぼ返りした。
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 《どうしてこういうことになったのか?》マンションの地下駐車場に愛車をぶち込み、エレベーターで最上階のおれのフロアに昇って鍵を開けたが、頑丈なドアは猫一匹辛うじて入りこめる隙間以上には開かない。体重を預けて力任せに押し開くと、ズズッと開いたドアのまうしろに後ろ手錠で全裸のララが横たわっていた。足首のワッパもそのままだ。どうやって用を足したのだろう?おれはそっと抱きかかえて、ベッドにそっと下ろし、即座に二個ともワッパを外して、痣の残らぬように皮膚をやさしく愛撫した。「ただいま」と、言い終わらないうちに、ララは跳ね起きてむしゃぶりついてきた。危うく二筋、頬を引っかかれるところだった。おれはまだ制服姿でネクタイを緩めたままのなりで、片手でチャックを下ろすとおのれ自身を引っ張り出して、充分に湿りきっていないララの秘所にむりやり挿入した。激しく腰を使ってようやく潤ってきたララの秘所からおのれ自身を引き抜くと、ララの真っ白い大きな身体を裏返し、尻を高々と掲げさせた。白い小山を左右に押し広げると、谷間の真ん中に乾いた桃色の菊の花びらが震えていた。固く小刻みに震えるおのれ自身をゆっくりと挿入していった。出し入れするたびに、花びらが裏返って、うっすらと血の滲んだピンク色の祠が、おれをさらに奥へと招くかのようだった。ララの懐かしい、あの馨しい匂いが漂ってくるまで、おれは辛抱強く腰を使い続けた。開け放した正面のガラス戸から、心地よい海風と、おれにとっては眩すぎる太陽の光線が、遠慮会釈なしに部屋へ押し入ってきた。《ララ、愛しいララ、どうして逃げようなどとするんだ?》
 おれは公休の翌日も、電話一本で休みを取って、三日三晩、ララと愛しまくった。仕舞いには、おれの大砲はちびた鉛筆みたいに哀れなありさまとなった。それでもララのありとあらゆる穴に、おのれ自身を突っ込まずにはいられなかった。あたかもおのれ自身からララの本体に溶け入って、この〈火の玉小僧〉洋二がララと一体化することを、切に願っているかのようであった。四日目に強烈な空腹を覚えたおれは、ララの後ろ手にした両手首とほっそりした白い足首にワッパを掛け、ベッドに転がしたあと、勝鬨橋を歩いて渡り、築地の魚河岸、場内の〈鮨文〉でおまかせ二人前を摘まみながらビール三本を空けた。それでも万札一枚で足りる、安いものだった。一瞬、ララのために、お土産の折を包ませようかと思ったが、止めた。ララの肉体は、断じて、生臭くなってはならないのだ。毎日、生ジュースと、牛乳と、あらゆるアルコール類だけを飲ませている。固形物は一切摂らせなかった。いまは生ジュースも一日三杯までに限定し、あとは真水と、あらゆるアルコール類だけを飲ませている。明日からは真水も断って、コニャックと赤ぶどう酒しか飲ませないつもりだ。エレベーターで最上階のおれのフロアに昇って鍵を開けたが、頑丈なドアは猫一匹辛うじて入りこめる隙間以上には開かない。体重を預けて力任せに押し開くと、ズズッと開いたドアのまうしろに、またしても後ろ手錠で全裸のララが横たわっていた。足首のワッパもそのままだ。どうしても逃げたいらしい、おれからララは、おれのララは。
 《どうしてこういうことになったのか?》抱えて戻ったベッドでそそくさと、前と後ろから、ララと愛を交わしたあと、ララの傍らで十五分ほど仮眠すると、ララの後ろ手の両手首、そして両足首にワッパを二個嵌めてから、おれはダークブルーのTシャツに白いジーパンを穿いて、革ジャンを肩に羽織ると表に出た。むろん、冬でもサングラスは欠かせない。銀座通りに出て、〈刃物の木屋〉のまえに車を横付けにした。団十郎牛刀三本と料理バサミ一丁を買った。ついでに、行きつけの理髪店に立ち寄って、若禿げの頭をてかてかのスキンヘッドにしてもらった。エレベーターを降りて鍵を開けても、やはりドアはすぐには開かない。やはり全裸のララがワッパをつけたまま横たわっていた。
そんなにおれから逃げたいのか、ララ? 死んでも逃げたいのか、おれのララ?買い物袋ごとララを抱えあげてベッドにおろす。おれはララに背を向け、さっそく包みを解く、まるでそのなかに、一切の解決策の糸口が詰まっているみたいに。刃先の青白い光に食い入るように見つめていた。ふと、背筋に何者かの視線を感じて振り向いた。誰もいない。ララはあそこで相変わらず安らかに寝入っている、気のせいか、少しやせたみたいだが、若さ特有の健康美が著しく後退して、凄愴な美がヘゲモニーを握ったためであるのかも知れない。実際、ララはすでにこの世の者とは思われないくらいに蒼ざめて、ひたすら美しかった、おれのララは。
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 ララはおれのものとなって以来初めて口を利いた。
「あんた誰?あたしと結婚したいの?」
「そうだ、ララ。おれから絶対逃げなければ、な」
「違う、あたしはララじゃない。あたしはヴァルヴァーラ!ヴァルヴァーラ・アレクサンドゥローヴナ!でも、ララでもナナでもいい、殺しさえしなければ」
「殺すわけがないだろう、おれはおまえを愛しているのだ、食べてしまいたいくらいに、ララ!」
「愛してもいいけど、おねがい、食べないで」
「……逃げさえしなければ、なにも食べはしない」
「あんた誰?名前は?」
「おれは水田洋二、〈火の玉小僧〉なんて呼ぶやつもいるな」
「火の玉だなんて!人でなし!だから火の点いたタバコをあたしのあそこに突っこんだの?」
「関係ないね、だいたい膝蹴りしてきたのはおまえのほうじゃないか、ララ」
「そう、洋二、でも、結婚式はするんでしょ?ウエディング・ドレスはあたしに選ばせて」
「ああ、おまえの好きなのを選ぶといい」
「嬉しい、洋ちゃん、愛してるよ」
「おれもだ、ララ」
「ヨー、明日は出番でしょ?」
「そうだった、ララ」
「早く帰ってきて」
「うん」
 エレベーターを降りて鍵を開けても、やはりドアはすぐには開かない。やはり全裸のララがワッパをつけたまま横たわっていた。それどころか、東京湾に面したヴェランダのガラス戸が大きく割れて、吹きこむ夜風に厚地のカーテンと内側のレースの白いカーテンがはためいていた。抱えたララをベッドにそっとおろすと、ララの肌をくまなく点検した。やはり右肩にうっすらと血が滲んでいる。後ろ手錠に足首にワッパを嵌めたなりで、ララはガラス戸に体当たりしたのだろうか?終始、睡眠薬漬け、アルコール漬けの朦朧とした意識で、それでもララは自由になりたかったのだろうか、おれから遁れて?いくら厚地のカーテンとレースの白いカーテン越しとはいえ、朦朧としてふらつく身体でガラス戸に体当たりなどして、大事な皮膚に瑕でもついたらどうするのだ?もう、このままにはしておけない。それに、結婚の約束は?命惜しさのでまかせだったのなら、到底許せることではない。やっと心を開いて語りあえた今朝だったのに。《どうしてこういうことになったのか?》
 いずれにしても、ララはいまその美しさの絶頂にいる。ベッドにのびやかに横たわるその肢体は、連日の激しい愛の行為に、凄絶な美の翳りを深めている。ララのこの美しさを、おれは永遠に留めておきたい。そしてララは二度とおれから離れることはない。そのための準備なら、とうの昔に整っている。おれは制服と下着をかなぐり捨て、全裸になると浴室に行って、湯を張りながら、頭と身体を洗った。温い湯にゆったりと浸かりながら、ゴロワーズをたてつづけに吹かした。好きなタバコではないが、ゲルベ・ゾルテはまだお預けだ。つまみを目いっぱい捻ったシャワーで浴室中を洗い流しながら、湯を抜いた。それからエクストラバージンオリーブオイルを丸ごと一本使って、浴槽と流しを塗り清めた。忘れていた。肝心のララを洗ってやるのをすっかり忘れていた。おれは寝室に戻って、グラス一杯のコニャックと睡眠薬二錠を口に含み、ララに口移しで飲ませてやった。ぐったりしたララを、エクストラバージンで滑りやすい浴室に運びこむと、まず金髪の森をシャンプーした。地肌の手入れも忘れない。それからおのれの両手に石鹸をたっぷりと塗りつけては、ララの蒼白く耀く肌を、身体を隅々まで、とくに性器と肛門を念入りに洗ってやった。途中、なんども勃起して、そのたびにララに突っこまざるをえず、作業をしばし中断せざるをえなかった。それでも、最後に細心の注意を払って、美しい顔をとくに念入りに洗ってやった。意識はないのにララは激しく噎せたりした。このときも猛り狂うおのれの一物をララの口腔、奥深くまで突っこまざるをえなかった。ララの美しい口のなかで、いや、狭い喉の奥で果てるまでに、思わぬ時間を費やしてしまったことだった。
 忘れていた。すっかり忘れていた。浣腸はぜひとも済ませておかねばならないことだった。うつ伏せにして尻を高く掲げさせたララから怒張したままのおのれのものを引き抜くと、薄いピンク色を覗かせて口を開けた祠に、ホースの水を勢いよく当てた。迸る水と逆流する水のあいだに、渦に翻弄されるボートの舳先みたいに、茶色いものが垣間見えた。それでも出てこない。おれはホースの先をララの後ろの口にそっと押しこんで、しばらく待った。やがてララの腹は妊婦みたいにみるみる膨れてきた。苦しげにララが呻く。もう限度かと思えるところで、おれはついゲルベ・ゾルテを一服した。
ホースの先をポンと抜いたとたん、茶、焦げ茶、薄茶、黒、黒褐色、褐色、橙、あらゆる色の濃い霧が、ララの肛門から噴出した。浴室じゅうに勢いよくその霧が飛び散り、おかげでおれのタバコまで消えてしまった。浣腸には成功したものの、固形物は摂らせていなかったにもかかわらず、驚くほど大量の飛散物であった。おかげでララとおれ自身、浴槽と浴室も、ふたたび洗い流さねばならなかった。換気して、ララの小物入れのなかにあったジバンシーを振り撒くと、ふたたび湯船に湯を張るあいだに、ララの歯を磨いてやった。歯茎にも丹念にブラシを当て、こまめに嗽もさせてやった。ついでにおれも何十年ぶりかで歯を磨いた。コニャックで嗽もした。ゆったりとぬるめの湯にララとふたり、水入らずで浸かって、最後のハバナ葉巻一本をふたりで燻らした。眠っていたのに、ララは上手にけむりを吐きだした。シャワーで浴室中を洗い流しながら、湯を抜いた。ふたたび二本目のエクストラバージンを丸ごと使って、浴槽と流しを塗り清めた。たいして気にはしていなかったが、ルミノール反応など、出ないに越したことはないのだった。
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 少しずつ買い溜めておいた赤葡萄酒七十五本――バローロ、バルバレスコ、カベルネ、モンテプルチャーノ、キアンティ、モンタルチーノ、タウラージなどを、滑りやすい床に注意しながら、浴室に運びいれた。栓を抜いた空の浴槽で、裸のララは健やかな寝息を立てている。浴槽の栓をしっかり締めて、バローロの栓を抜き、仰向けのララの美しい乳房に半分ほど注ぎかけてまた栓をした。なだらかに隆起する白い肌に赤い流れが複雑な紋様を描いて映えていた。バルバレスコの栓を抜き、ララの形のよい臍からふっくらした金色のふくらみにかけて半分ほど注ぎかけてまた栓をした。眠ったままララは脚を組みかえた。カベルネの栓を抜き、ララの茂みから白い太腿にかけて半分ほど注ぎかけてまた栓をした。タウラージの栓を抜き、ララの凄絶な美しさを湛える顔に半分ほど注ぎかけてまた栓をした。ララは少し噎せたが、ピンク色の舌先を覗かせて、唇を濡らしたタウラージを舐めていた。モンテプルチャーノの栓を抜き、うつ伏せにした裸のララの白い尻に半分ほど注ぎかけてまた栓をした。キアンティの栓を抜き、ララのほっそりした首筋、なだらかな肩、広い背中にかけて半分ほど注ぎかけてまた栓をした。モンタルチーノの栓を抜き、高く掲げさせた白い小山をふたつに分けて、杏色の菊の花びらに瓶の口を押しこみ、半分ほど注ぎいれてまた栓をした。トラミネールの栓を抜き、逆さまの薔薇色の花園に瓶の口を押しこみ、半分ほど注ぎいれてまた栓をした。ヴァルポリチェッラの栓を抜き、ララの美しい金髪を掴んで仰向かせると、半開きの艶めかしい口に瓶の口を押しこみ、半分ほど注ぎいれてまた栓をした。ララはひどく噎せたことだった。七十五本の中身の半分ほどをすべて注ぎおえると、浴槽の葡萄酒はララの背中を強く押せば、ララの背中うえ拳ふたつくらいの深さにはなった。
 背後からララの菊座を貫いて深く結合したまま、大雪原にも似た広い白い背中を、ララの盆の窪から尾骶骨の真上まで、ゾーリンゲンの剃刀で浅くいっきに切り裂いた。ウェットスーツのジッパーを一気にずり下げるほどの抵抗感もなかった。眠りつづけるララは、一瞬の鋭い切れ味に何の痛みも覚えなかったようだった。しかし、剃刀を放り投げたおれが抱きしめたままララの身体を葡萄酒の海に浸けると、跳ねあがるようにララは暴れた。驚くような力の強さだ。振り落とされそうになったおれは全力を尽くしてララを抱きすくめ、赤ぶどう酒の海に沈めねばならなかった。ララは激しく噎せながら絶叫した。とてつもなく長い時間に思われたが、三十分にも満たないあいだ、ふたりは死力を尽くして争っていた。盆の窪から尾骶骨の真上まで一直線に切り裂かれた、切り裂かれてしまったララの美しい白い背中は、いまは無慚な傷口を露わにして、その一直線の細く長い傷口は夥しい血とぶどう酒のなかに、薄いピンク色の脂肪と肉を剥き出していた。
 力尽きたのか、いまは大人しくなったララの背中に口を開けた縦真一文字の傷口に、その中ほどに、おれは恐る恐る両手の指先を押しこんだ。ふたたびララが激しく暴れる。予期していたおれは両手のひらに力をこめて、ララの背中を浴槽の底に押しつけつつ、やがて両手をすっかりララの皮膚の下に潜りこませた。暴れるララの身体をなおも強く浴槽の底に押しつけながら、おれの両手はララの広い背中の美しい肌の下を、たて真一文字の傷口に沿って土竜みたいに上下に移動した。
やがておれの両手は、ララの美しい肌をいささかも傷つけることなく、ひたすら豊かな脂肪の層のなかを、腰から腹へと移動した。こんなにも深い愛撫をおれは経験したことがなかった。ララもきっとそうだったろう。恍惚としたおれは、果たしていつ精を放ったのかさえ、ろくに覚えてはいない。おれは背後からララの美しい肌の下で、両の乳房を存分に揉みしだいた。いまや一直線の傷口はその幅を拳二つ三つ分にも拡げ、おれの両腕は楽に肘までララの肌の下にもぐりこんでいた。ララの絶叫はとうに絶え間ないうめき声に変わっていた。いまはそれに悲鳴にも似たむせび泣きが加わっていた。激甚な苦痛のあまり、大量の睡眠薬とアルコールにもかかわらず、意識が完全に覚醒したのではあるまいかと、一時おれは疑いを覚えたほどだった。おれの両手は、ララの皮膚の下で下腹から性器と肛門のあいだの脂肪層を入念に弄っていた。それから白い小山のララの尻を、白く耀くその肌の下を満遍なく愛撫していた。しかし尾骶骨の真上までしかない傷口からでは、挿し入れた両手を太腿から膝まで進めるのにはやや困難を覚えていた。こうして二時間も三時間もおれは果てしない愛撫を続けた。苦痛の極みのなかで歪んだララの表情に、それでも一瞬、恍惚の笑みが広がるのを、おれは盗み見たような気がしたことだった。
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 盆の窪から尾骶骨の真上までぱくりと口を開けた縦真一文字の傷口を曝しながら、血とぶどう酒の海を漂う白い女神ララ、そのララの妖しくも美しい姿態をいまは目だけで犯しながら、おれはゲルベ・ゾルテをまた一服した。おれの手のひらも、指先も、腕も、肘も、べっとりとララの血がこびりつき、ぶどう酒が滲んで、おれの下腹も、そのものも、ララと同じ、うっすらと薔薇色の耀きを放っている。夜明けまでにまだやらねばならないことがある。絶え間なく呻きつづけるララの声もいまはだいぶ細っている。呼吸だけはなんとしても確保しておいてやらなければならない。縦真一文字の傷口の最上端部、盆の窪の傷口に両手指を潜らせ、おれはゆっくりとララの頭蓋骨をじかに愛撫した。がくがくと首を鳴らしてララが絶叫するたびに、おれの手のひらは確実に、ララの頭皮と頭蓋骨のあいだにおのれの領土を拡大していった。やがておれの両手はララの額からこめかみにかけて、美しい肌の内側を丹念に愛撫していた。記憶に焼きついたララの素顔をなぞるかのように、指先が、目、鼻、口を探り当てて、ゆっくりとその形を露わにしてゆく。顎からほっそりとした首筋へと、血まみれの両手が戻ってくるころには、ララの悲鳴もうめき声もくぐもって、二重の響きを伴っていた。おれはいったん抜いた両腕を、ふたたびララの盆の窪の傷口に潜りこませて、皮膚の内側から両手のひらをララの額に当てると、無造作に力をこめて押した。ぺろり、玉羊羹の皮を剥くかのように、ララの皮膚の下、素顔の中の素顔が美しい肌を少しも傷つけることなく剥きだしになって、おれの目のまえにあった。機能的な、ジェット機みたいに機能美だけの、もろに筋肉だけの美しい顔がおれの目のまえにあった。大きな空色の目玉を、愛しさをこめて、いくども舌先で舐めた。ララの素顔のそのまた素顔をこれほどに愛しさをこめて愛撫できる男は、この広い世界におれ独りしかいない。《どうしてこういうことになったのか?》美しい金髪ぐるみ、ララの肌をいささかも傷つけることなく、頭部を無事に剥ぎ終えてみれば、あとは簡単だった。右肩の皮膚の下に両手を潜りこませて、強く押して、まず右肩の筋肉を露出させた。それから肌にまとわりつくウェットスーツを脱がせる要領で、右肘を抜き、手首、掌、指先にいたるまで、くるりと剥いた。左肩、左肘、左手首、掌、指先にいたるまで、まったく同じ要領でくるりと剥いた。頭部、両肩、両腕、両手を抜き出したララのほっそりした首筋から胸にかけて、あくまでもゆたかな脂肪層のなかをおれの両手は這い進み、両の乳房に到達するや、執拗な愛撫をくり返す。やがて二つの乳房も白いブラジャーを剥ぎとるかのように、真っ赤な乳房が白い乳房と別れていった。
 こうしてララの上半身は臍から下だけを残して、ゆたかな金髪に、清楚な顔立ち、あくまでも美しい見馴れたララの雪白の上半身と、ところどころに脂肪の層を残すものの、真っ赤な筋肉の塊と大きな空色の目玉、真っ白い歯並びを隠しもしない、新鮮な剥き身のララの上半身との、二つに分かれていた。高く掲げさせられ、薄薔薇色の耀きを放つ白い小山をふたつ抱えて、背後から菊座を貫いて深く結合したまま、おれはララの尾骶骨の真上から両手を尻の皮膚の下に潜りこませた。
背中のほうから徐々に両手を押し下げて、雪白の肌を剥いてゆくと、おれそのものを暖かく包みこんだ直腸がおれの律動に合わせて律動するのが見えた。おれは血まみれの両手で直腸を握り締めた。ララの絶叫にあわせて叫びながら、おれは長々と精を放ち終える。いまでは真っ白いパンティをずり下げられたかのように、真っ赤な筋肉の豊満な尻がおれの目のまえに聳えて、小刻みに震えていた。むろん絶え間なくララの嗚咽と痙攣は続いていた。赤いふたつの小山を両手で押し分けると、赤紫色の直腸が拳ふたつ分ほどもはみだしてモンブラン・トンネルみたいに心細げに谷間に揺れていた。とりあえず、拳三つ半ほども残して、テグスでしっかりと縛ると、手前を木屋の料理バサミで切りとった。臍の緒も同様にして切りとり、ララの赤い筋肉の身体を金色の茂みの下腹まで剥きだしにした。金色の茂みを掴んで強く引っ張ると、薄赤紫の膣道が露わになった。膣と繋がる子宮口のまわりを絞って、テグスでしっかりと縛ると、手前を料理バサミで切りとった。あとは肌にまとわりつくウェットスーツを脱がせる要領で、真っ白い太腿から膝、足首、足指と、白い肌に瑕ひとつつけることなく剥いでゆくだけのことだった。
 《どうしてこういうことになったのか?》猟師ならば、獣の皮を手際よく剥ぐことはごくありふれた生業の一部である。ハンターならば、仕留めた獲物の皮を剥いで、その肉を喰らうことはごく普通の愉しみである。それらと似て非なるこの行為がこれほどに闇の悦楽を齎すのは、やはり対象が生きた人間、生きた女であるからだろうか?しかしこのおれは、ララとの恋を遂げるために、止むを得ずそうしているのであって、そのためにこそ、ララは生命のある限り、人類の感じとれる限り最大限の苦痛を味わいながら、この愛の行為を受け容れ続けねばならないのだ。人類の犯したあらゆる過ちを贖うために。
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 てかてかのスキンヘッドから爪を短く切った足指の先まで、三本目のエクストラバージンオリーブオイルを丸ごと一本使って、おれはおのれの身体を塗り清めた。おのれの一物と菊座はとくに入念に塗り清めた。体毛や恥毛はむろんとうに剃り落としていた。それから血とぶどう酒の滴るララの生皮を、ウェットスーツを着る要領で、手際よく、だが細心の注意を払って着込んだ。でかい姿見のまえに立った。すると、鏡のまえには眸だけは黒い、金髪のララが立っていた。大柄のララの生皮は、長身のおれにまさにぴったりだった。少しの弛みもない。おれはララの仕草を真似て、両手で胸を覆ったり、股間を隠したり、それからラジオ体操をして、屈伸運動をくり返したり、腕立て伏せまでした。少し汗をかいて、台所へ行き、缶ビールを飲み干すと、冷蔵庫からよく冷えた胡瓜を一本取りだして、姿見のまえに戻った。
 姿見を見ながら、ララの金色の茂みに隠された秘所を弄り、膣道を裏返しに引っ張り出すと、おのれの怒張したもので内側から貫いた。見馴れぬ衣裳を纏い、ララの秘所から突き出たおのれの尖端は子宮口からはみだして、姿見の中で小刻みに震えていた。よく冷えた胡瓜をララの生皮の肛門からそれに連なる直腸に挿しこみ、突き出た先をおのれの菊座に宛がった。考えなおす暇も有らばこそ、おれはドシンと尻餅を搗いた。瞬間、目に七色の火花が散って、金髪の下でスキンヘッドの脳天を激痛が駆け抜けた。おれは出血し、おれの血とララの血とぶどう酒が混ざり合った。痛みは床をのたうち回りたいくらいだったが、いや、実際におれは出血しながら、五、六分も床をのたうち回っていたことだろうか。しかし生皮を剥がされたララの激甚な苦痛は到底こんなものではないだろう。極めつけのエゴイストたるこのおれが、人類の犯した過ちを贖うために徴した第一歩だった。
痛みを堪えながら無様に立ち上がり、姿見のまえで、ララの膣越しにおのれのものを握り締めた。
すると、鏡のまえには眸だけは黒い金髪のララが立っていて、秘所から大きく突き出た一物を握り締めて、ゆたかな尻を振っている。
 耐えに耐えた精を放つ寸前、鏡の右隅を過ぎる赤いけものを見た。振り返ると、料理バサミを逆手に握った剥き身の赤い裸身のララが襲いかかってきた。咄嗟におれは左掌に凶器の切っ先を受け、刃が掌を突き抜ける激痛を意識したときには、右手でララを殴り倒していた。ララの生皮を纏ったこのおれは、左掌に鋏の刃を突き通したまま、赤い剥き身のララを床に押さえこみ、左掌の刃を抜き取ると、鋏を遠くへ投げ捨て、そのまま血の噴きだす左掌で、剥き身のララの身体じゅうを撫でまわした。赤く生皮を剥かれたララのかつて秘所と菊座のあった箇所に、勃起したおのれをぶち込むのに、躊躇うようなおれではなかった。それどころか前から、後ろから、口からと、縦横に剥き身の哀れなララを陵辱しまくった。人類の犯した過ちを贖うどころではない、おのれの浅ましい姿だった。規模と場所と時代こそ違え、これは本質においてアウシュヴィッツの再現であった。七三一部隊の再来であった。ヒットラーもムッソリーニも東条英機も喜んで、このおれを仲間に入れてくれたことだろう。サダムもブッシュもシャロンもまた。
 必死の反撃に残る力を使い果たしたララは、おれの執拗な愛撫を蒙るうちに、青い目玉に薄い白い膜がかかり始めて、早くも虫の息となった。おれはそっとララを抱き上げて、血とぶどう酒の浴槽にふたたびそっと横たえてやったのだが、その間、なんとしても、両の目から零れ落ちる涙をとめることが出来なかった。《ああ、どうしてこういうことになったのか?できることなら、ララと代わってやりたい!生皮を生きながら剥がされたのがこのおれで、それを陵辱するのが虐げられ続けてきたララであったならば、どんなにか善かったことだろう!ああ、神さま、もしもあんたがほんとにいるのなら、いまこそ姿をここに現して、ララをこのおれに、このおれをララに変えておくれ!》
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 以来おれはララの生皮を脱ごうとはしなかった。いや、一度ならず、ウェットスーツの脱ぎ方を思い出しながら必死に脱ごうとはしてみたのだが、ララの生皮はスキンヘッドのおれの頭から爪を短く切った足指の先まで全裸のおれにぴったりと癒着して、おれの皮膚そのものになりつつあった。こんな異常事態が出来したにもかかわらず、おれはなんの非常手段、なんらかの救済措置さえも採ろうとはしなかった。いや、熱いシャワー、冷たいシャワーを浴びるたびに、いまやおのれの肌となりつつあるララの肌を、粗いメッシュのタオルでごしごしと擦ってはみるのだが、肌理の細かい匂いたつような肌は、一時、薄い薔薇色に染まるばかりで、青みを帯びたかつてのララの肌よりもおれの目には健康的に映りさえするのだった。両の乳房もしだいに丸みを帯びて弾力を増し、固く尖った乳首を親指と人差し指の腹に挟んで転がすと、身体の内奥に鋭い痛みにも似た疼きさえ覚えてくる。おれのいかつい尻までがひときわ丸みを帯びてきて、弾力を増したかのように思える始末だった。その傍らでは相変わらず、赤い剥き身のララが血とぶどう酒の海に首まで浸かって、白い膜のかかった空色の目玉でおれをじっと見あげて、衰弱の度を深めていく。その右の尻肉には、十本の切れ目が入れられ、すでに三切れ分のララの尻肉が、おれの胃の腑に収まっていた。
 団十郎牛刀で大きくざっくりと深く尻肉に切れ目を入れるごとに、真っ赤に焼いた霞流し柳刃包丁を新たな傷口にじゅじゅっとばかり宛がい、止血と消毒を兼ねるのだが、そのたびに香ばしい旨そうな肉の焼ける匂いが浴室に漂う。生唾を堪えておれは台所に駆けこみ、熱く熱した鉄板にララの脂を拡げて、その上にいま切りとったばかりの厚切りの尻肉を拡げるのだった。むろん軽く叩いて塩胡椒する手間を惜しんだりはしない。さっとコニャックも振りかけて、ぼっと青白い炎を燃え立たせ、レアの熱々を、よく冷えたバローロもしくはバルバレスコを飲んだ口に頬張る。むろんバローロもしくはバルバレスコ壜の中身の半分ほどは、浴槽から汲んだララ自身の生血、プラス、イタリア各地のさまざまな赤ぶどう酒である。おれはそれを美味しいと思った、事実、それぞれのぶどう酒本来の風味に、まったりとした芳醇さが加わっている。極めつけのエゴイストたるおれの人格はこうして、まず嗜好の面から自己変革の波に揉まれ始めたかのようであった。レア・ララ、その肉の陶然とさせる風味のよさに、おれは一口頬張ると、口のなかで柔らかくなるまで咀嚼しながら、浴室に近づき、禁を犯して、ララに口移しで食べさせてやったくらいだ。
 ララの余命はすでにいくばくもなかった。左の尻肉にも十本の切れ目を入れ、すでに九切れ分のララの尻肉を冷蔵庫に確保したころには、早や、危篤状態だった。急がねばならなかった。二本の牛刀を駆使して、右太腿、次いで左太腿から二十数枚の厚切り肉を切り取りおえた直後に、ララの心臓は停止した。心臓停止から四分後には脳は腐り始めるという。おれは厚切り肉の冷凍保存はそっちのけにして、ララの頭蓋骨から大脳、中脳、小脳を両手で掻きだして、保存パックに入れて冷凍庫にぶち込んだ。むろん生食用に大脳、中脳、小脳、それぞれ一小鉢ずつに氷を載せて冷蔵庫にしまったことはいうまでもない。それから心臓と肝臓を取り出し、半分ほどは塊のまま冷凍庫にしまったが、残り半分ほどは冷蔵庫に入れ、さらにその半分を薄くスライスしてパックに入れてポータブル冷温庫にしまった。レモン汁をかけて、オリーブを添えれば、つまみには最適だった。
ララの空色の目玉は、グラス二つに一つずつ入れて、ウォッカを注いで、冷凍庫に入れた。飲んだ分だけウォッカを注ぎ足しておけば、いつでもギンギンに冷えたアイ・ララ・ウォッカが愉しめる。凍ったグラス越しに、ララの空色の目玉と目を合わせながら、アイ・ララ・ウォッカを飲み干す気分は最高だった。《愛しているよ、ララ、この広い世界の中心で!》
 腎臓、脾臓、胆嚢、膵臓、子宮、膀胱……人間の臓器で食べられない臓器はない、まして愛しいララの臓器だもの。肺だけは煮ると悪臭が出そうで困ったものだが、細切りにして塩焼きにでもしたらどうだろうか?生前のララが若いのに似ず、ヘビースモーカーだったなら、肺細胞にこびりついて溜まったヤニが燃え、青白い炎が燃え立つことだろうが、ぱりぱりと歯ごたえがよく、意外といけるかもしれない。持ちの悪い臓器類をひとまず冷凍庫に片付けて、すべて処理し終わると、おれはレッド・ブルとかいう手巻きタバコをゆっくり燻らした。どうということもない、まったく愛着の湧かないタバコだ。それでも何本か、巻いては吸い、巻いては吸いするうちに、それなりに旨いと思えてくるのだから、ニコチンが健康に及ぼす悪影響はむろんのこと、嗜好に及ぼす抜け目のない作用にもまったく油断がならない。期待値に過不足なくニコチンを供給する、そんな銘柄にいつしか身体のほうが馴染んでしまうのだった。かつてはメアシャムに凝ったりして、深い香りのパイプタバコ一辺倒だったのに、いまでは手巻きのタバコならどれでもいいように思えてくる。
 尻、太腿のほかにも、脹脛、足裏、腕、掌、舌、陰部、肩、背、胸、腹と、さまざまな部位の肉があり、それぞれ味も歯ごたえも微妙に異なることだろう。舌と陰部はすぐ食べることにして、あとは試食用の厚切り一、二枚ずつを冷蔵庫に入れると、みな冷凍庫に片してしまった。それでも骨からこそぎ落としたばら肉など、かなり大量の肉片が浴槽の血とぶどう酒の海に相変わらず漂い、一部は底近くに沈んでいたし、脂身だけでも、コーヒー豆の空き缶二缶分ほどにもなった。ばら肉、屑肉などはみな挽き肉にして胡椒、スパイスをたっぷり加えて、腹腔から引き出してよく水洗いした小腸や十二指腸や大腸に詰めこんで、腸詰めやソーセージにした。それからむろん、燻製にするのもよい。七十五本のぶどう酒の瓶、その瓶の半ばから口まで、ララの血とぶどう酒のカクテルを満たしてもなお、浴槽の底には、どろりとした血とぶどう酒の層が残った。これに腱や血管、神経、腺や膜、それに人参、トマト、パセリ、玉葱、セロリなどを加えて、大鍋で何日もとろ火で煮たてて、スープの素にした。一部はカレー粉と胡椒、スパイスをたっぷり加えて辛辛カリーに仕立てたし、また一部は別の大鍋の底にララの頭蓋骨を据えて、秘伝スープを作り、人骨ラーメンを試作した。これなどはラーメン好きのゴーストタクシー仲間、〈リュウ〉こと白浜竜次や、〈マスクマン〉こと具志吾郎などに試食させてみるのもまた一興だろう。熱々の叉焼もララの新鮮な腿肉から、腕によりをかけて焼きあげたことだし。《ララ・ラーメンだ、食ってみろ!》
 気がつけば、愛しいララは綺麗な白骨ばかりになっていた。あとはこの水田洋二こと〈火の玉小僧〉の無骨な肌にぴたりと密着した、金髪、黒い眸の、真っ白い肌に金色の茂みの映える美しいララ、実はおれがいるばかりである。おれは青い闇のなか、マンション最上階のヴェランダに出て、東京湾を吹き渡る夜風に金髪を靡かせ、真っ白い肌をいたぶらせながら、懐かしい曲をいつしか口ずさんでいた。《ターラ・ラ・ラン、タ・ラ・ラ・ラーララ、ターラララン、タラ・ラ・ラー・ララ》
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 薄青い闇の迫りくる黄昏時のこと、あたしは今日も飯倉片町の交差点付近で張っていた。ついに見覚えのあるタクシー、見覚えのあるサングラスのドライバーが通りかかった。すかさず手を挙げる。
吹きつのる青い風に惜しげもなく金髪を晒しているすらりとしたジーパン姿のこのあたしを発見、注視しながら、ドライバーも車速を緩めたところだった。思わず、空色の眸に強い光のこもったことだった。
「はい、お待たせ。どちらまで?」
「待たせたわね、どちらまで、じゃないでしょ、あんたのアジトへやりな!」
「ギャビー!縒りを戻そうってわけ?」
 あたしは竜次のうなじに押しつけた掌サイズの護身用拳銃の銃口をグリグリと肌にめり込ませた。
竜次はあたしの身体そのものから発する惹きこまれそうな深い香りに「クラクラッとする」どころではなかったことだろう。チャカを少しでも弄んだことのある者なら、安全装置を外した婦人用ピストルの恐ろしさは骨身に滲みているはずだ。車のひと揺れだけで暴発しかねない。その豆拳銃の引鉄にあたしは震える細い指をかけ銃口を竜次のうなじにめり込ませている。車が不意に揺れないことを願う思いはあたしも竜次に負けないくらい強かった。遥ばる日本まで来たのは何も不良タクシー運転手と心中するためじゃない。
「よくも見ず知らずの他人のあたしを催眠・拉致・強姦・監禁したあげくに、よくもよくも浣腸までしてくれたわね!」
「いや、あれはあんたのためを思って、身動きもならずベッドで漏らしちゃ、気持ち悪いだろうって……」
「おだまり、トロトロ走るんじゃないよ、着いたら、じっくりあんたの身体に訊いてやるから!」
 あたしたちの車はフルスピードで濠端から銀座、築地を抜け、勝鬨橋、黎明橋を渡ってトリトンをぐるりと回りこむと、運河に架かる霽月橋を渡って月島の見覚えのある襤褸倉庫に音もなく吸いこまれた。シャッターを閉めおえた竜次の背中に拳銃を食い入らせて、あたしが命じる。
「裸におなり!」
「仕事中なんだけど」
「だまれ!」
 拳銃の尻で竜次の頭を小突いた。思わず力任せに小突いたから、皮ぐらい剥けたかも知れない。
素っ裸になった竜次をトイレに追い立て、向こう向きに立たせてから、尻を高く掲げさせ、洗車用ホースを引き出すと、筒先を三十センチ以上、竜次の肛門に無理やり押しこんでから、蛇口を捻った。
あたしは五メートルほど離れた折り畳み椅子に馬乗りに腰をおろして、背凭れに肘を乗せて腕を固定させると、銃口は相変わらず竜次の背を狙ったまま、左手だけでバッグの底を探って、ラークメンソールを取り出し、パックを揺すって一本咥えると、火を点ける。立て続けに二、三本燻らすうちに、竜次が苦しそうに呻きだした。見ると、肛門に洗車ホースを突きたてた竜次はいまは妊婦みたいに腹を膨らまして呻いている。
 《このまま蛙みたいに腹をパンクさせる竜次を見守ってやろうか》そんな残酷な思いが脳裏を過ぎらないでもなかった。残酷だなんて、昨日までは、《竜次を見つけたなら、素っ裸にして皇居の濠端のひときわ見事な枝振りの松の一番高い枝に吊るして、足首にぶら下がってやる、首の骨が折れた瞬間、竜次は必ずや糞小便、精液までも一時に撒き散らすことだろうから、素早く跳び退らねば。確か、かつての西部では、そうした早業に熟達したバイト少年たちがいたはずだ》と、一途に思い定めていたくせに。それがいまでは、《迎賓館のあの瀟洒な鉄柵に、裸で攀じ登らせて、先端の尖った鉄の穂先に菊座を貫かれたまま、鉄柵のうえに数時間を持ちこたえる竜次であったなら、夜の白むまえに許してあげてもよい》とまで、いつのまにか軟化しているあたしだった。
 あたしは立ち上がって、水流を緩めると、食器棚にまたも無造作に置かれている三百万円をおのれのバッグに滑りこませた。忘れずに冷凍庫のなかも点検すると、うっすらと霜を載せた札束が、ざっと見て二千万円あまり、奥に鎮座していた。こちらには手をつけずに、折り畳み椅子に舞い戻り、ふたたび腰を下ろして、脂汗を滴らせているぼて腹の竜次に声をかけた。
「よし、ホースを抜きな!だめ、そのままの姿勢で、やるんだ!」
「止め!気が変わった。ホースはそのまま、四つん這いで車のそばまでお往き!」
 臨月の妊婦みたいに腹を膨らました竜次が車のそばまで這い寄ったとたん、あたしは蛇口の栓を右に思いっきり捻ってやった。跳びあがった竜次は車の周りをぐるぐる走り回る。弾みでホースの筒先がようやく外れ、盛大に水飛沫が噴きだし、むろん竜次の尻の穴からも別のものが盛大に噴出して、駆けまわる竜次はさながら人間ロケットみたいだった。
「どうやら、お腹をパンクさせるよりは、鉛の弾がお好きなようね!」
 あたしが拳銃を構えなおすと、竜次はぴたりと止まった。
「おお、臭!換気扇回して!消臭スプレー撒いて!撒いたらそのホースで、自分の身体と、車と、床を綺麗に洗い流すんだよ!さっさと、おし!」
 あたしはアメリカンスピリットメンソールをゆっくりと燻らしながら、全裸のまま忙しく働く竜次を観察する。怪しからぬことに、竜次はそのものを臆面もなく勃起させていた。《これは厳しく、お仕置きしてやらねば》
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「ボンネットにうつ伏せになって、万歳しな、お尻を突き出して!」あたしはバッグの底からおもむろに、これも掌サイズに固く丸めた細身の革鞭を取りだして、ヒューっと空を斬った。無骨な竜次の男臭い尻に、あたしの繊細な革鞭が鋭い音を立てながら、しなやかに舞い狂う。長く感じたがほんの二、三十分のことだった。早くもあたしは汗まみれになって息を切らし、むろん竜次の青い尻はくまなく蚯蚓腫れの血まみれだった。「えいっ」右手で革鞭の柄を竜次の菊座に押しこみ、左手に握った拳銃の銃口を竜次のこめかみに押しつけながら、しなやかな革鞭の根元をぐるぐるっと竜次のそそり立ったままの一物の根元に捲き締める。こうすると通常の一・三倍ほども異常勃起するが、精を放つことは出来ない。鞭の先端を口に咥えて、竜次を台所に曳きたてた。敏感な部分を曳かれた竜次は充分に従順だった。右手を空けていたのにはわけがある。塩をひと掴み握り取るなり、竜次の蚯蚓腫れの尻にぶちまけた。
「ひぃっ」竜次は一フィートも跳び上がったことだった。次いで寝室に引き連れて、ベッドに仰向けに横たわらせた。少しでも腰を浮かせて、血まみれ塩まみれの尻をシーツにつけまいと、竜次は無駄な努力をしている。あたしは竜次の顔に跨り、マルボロメンソールの吸いさしを竜次の一物の黒光りする亀の頭に押しつけては煙を吐き出した。
「お舐め」ジーパンの厚い布地越しでは、竜次の懸命な舌先の動きもひどく鈍くしか伝わらなかったけれど、あいつの一物のほうは充分すぎるほど充分にタバコの火の灼熱を感じとっていた。ひりひりと痛む尻をシーツに押しつけてまで、火を逃れようとしていた。あたしはジーパンごとパンティをずり下げると、竜次の鼻面におならを一発かましてから――これは先日の催眠スプレーのお礼だ――悶絶寸前の竜次の逸物を、あたしのあそこに咥えこんだ。あたしは金髪を振り乱して、揺すった尻を浮かせては仰け反った。余儀ない仕儀とはいえ、男を強姦するのはあたしには初めての経験だった。つい、期待以上に昂奮してしまった。尻をペタンと竜次の下腹に落とすたびに、一物の根元に巻いた革鞭があたしのあそこに食い入った。
「リュウ!」あたしは濡れに濡れて叫んでいた。
「ギャビー!」竜次も叫び返していた。
 永遠に続くかと思えたのに、堪えに堪えたあたしは一時間も経たないうちにいってしまった。貫かれたままあたしの尻は竜次の下腹の海にぐったりと着水して、しばらくあたしは動けなかった。不覚にも続けざまに何度もいってしまったのだ。海の創り主はほかならぬあたし。それなのに竜次は、きつく根元を縛った革鞭のせいとはいえ、一度も放出していない。またしても憎い思いがこみ上げてきた。次の瞬間、革鞭の柄を引き抜くなり、火のついたタバコをやつの菊座にねじ込んでしまう。
「ぎゃっ!ギャツビー!」竜次は悲鳴をあげてあたしにかじりついてきた。可愛い男だった。いきなり放出したりしないように、タバコを吸わせてから、あたしはおもむろに竜次の根元の革鞭を解いてやって遠くへ投げ捨てた。それでも結合は維持したままだ。あたしも気分をほぐしてリラックスし、竜次の腹のうえに身体を横たえると、初めて恋人らしいキスをしてあげた。
「リュウ、あんたいくつなの?」
「おれか?おれは三十六だ。ギャビー、おまえは?」
「あたし?あたしは今日で十七」
「げっ!お、おれは未成年とやっちまったのか?いや、いまもやっているのか?」
「なによ!いくつだと思ってたの?」
「二十七、八は固いかと踏んでいたんだが……」
「失礼ね、ずいぶんと年増に見てくれるじゃない、あたしそんなに老けている?」
「いや、だけどセクシーだし、度胸がいいし、やることが凄まじいからな」
「リュウ!どっちが凄まじいのよ!十六の少女を拉致・強姦・浣腸したくせに!」
「ギャビー、赦してくれ!おまえはおれの娘だとしても可笑しくない年頃だ」
「ふん、リュウ父さんなんて呼ばないからね」
「ギャビー、おれはおまえのことを何も知らない」
「ふん、何も知らないだって!会話もなしに、手間ひま省いたアクセスしたのは、いったいどこのどいつよ?」
「すまない、ギャビー、でもおまえのことを話してくれ、お願いだ」
「いいわ、隠しておいても仕方ないもの、ラトヴィアって国、知っている?あたしはそこのリーガって港町で生まれたの。バルト三国の首都でもあるわ。〈すべての道はリーガに通じる〉って言うでしょ」
「そいつはローマだろ?」
「おだまり!邪魔すると話してやらないから!」
「ううっ、痛い!」
「母はむろんリーガっ子、ロメ・ホテルのレストランで給仕をしていたの。そこに泊まったのが、イタリア人技師の父だったわけ。父は北イタリアのトリーノ出身の技術者で、真面目一方のひとだったそうよ。で、機械の据付が終わると試運転もそこそこに帰国してしまい、そのあと生まれたあたしは父に抱き上げられることもなく育ったわ。三年ほどは熱心に手紙を寄こしたけど、次第に間遠になり、冷淡になったから、母のほうから手紙のやり取りもやめてしまったの。あたしはどうするのよ、ガブリエッラなんて、変な名前だけもらって?」
「ギャビー、とっても素敵な名前だよ」
「そう?あたしは大きくなったら、いつかトリーノへいって、父の頬っぺたを思いっきりひっぱ叩いてやろうと思っていたわ」
「ギャビー、泣くなよ」
「でも、いざ大きくなると、とても素直には父の国イタリアへ行く気になれなかった。そこへいい気な日本人がやってきて、『東京へ来れば、働きながら学べる』なんて、何も知らないあたしを騙したわ」
「可愛そうなギャビー!」
「そして六本木でセックス産業に奉仕させられていたわけ。厭な日本人!横浜のあの男にパスポートも取り上げられて、往生していたわ」
「ああ、ギャビー!」
「でもいつかは誰かが助けてくれると信じていたわ。リュウ!そんなあたしをあんな目に遭わせるなんて、あんたはとんだ〈白馬の騎士〉ね!」
「い、痛い!」
「この誘拐魔、強姦魔の浣腸魔!こうしてくれる!」
「い、いいいっいー」恋人らしい抱擁がいつのまにか激しいセックスに変容していた。《いったいこの白浜竜次という男は、サドなのかマゾなのか、それとも女とは満足な会話も出来ない、ただの淋しい小父さんなのか?》
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「いってらっしゃい」口のなかで呟くと、狭いベッドのなかで伸ばした身体をさらに伸ばしただけで、あたしはうつ伏せに寝そべったまま、ゆっくりとタバコを燻らした。真っ白い雪野原に朝陽が当たるかのように、あたしの白い二つの小山は内側から薔薇色に火照っていた。竜次の乗った暗緑色のスカイラインが排気音を轟かせながら夜明けまえの運河の橋を渡りきったあとの一瞬の静けさを愉しみながら、あたしは肺を紫煙でいっぱいにした。あいつは往ってしまったけれど、あたしの身体の前にも後ろにも、まだあいつの子分たちが残っていて、しきりに暴れだしたがっている。たった一台の車が出払ってしまい、がらんとしたガレージで熱いシャワーを浴びてさっぱりとしたあたしは、借り物のTシャツ、パンティなしのGパン、サンダル履きで、もう張り切っていた。いまではこの襤褸倉庫の中のだだっ広い空間はあたしの新領土、あたしだけの王国だった。まず、探検から始めた。
大きな家具は、起き抜けの寝乱れたままの古戦場みたいな簡易ベッドだけかと思ったら、そうではない。場違いな真っ白いGE製のノンフロン冷蔵庫、ドラム式洗濯乾燥機、電子オーブンレンジまで在る。いずれも生活上の動線というものを歯牙にもかけない散在ぶりだった。どしんと腰が当たると、マウスには手も触れていないのに、古ぼけたスチール製事務机のうえでデルの画面が鈍い光を放った。竜次ったら、ログオフもしていない。画面は見ずに、低い調べに誘われて、ついスピーカーのつまみを後ろ手に思いっきり右に捻ると、フィリッパ・ジョルダーノの清らかな歌声が、運河沿いのこの襤褸倉庫の空間いっぱいに溢れた。〈カースタ・ディーヴァ〉(清らかな女神よ)……〈あなたの声にわが心は開く〉……〈アヴェ・マリーア〉……〈さようなら過ぎ去った日よ〉……涙がみるみるうちに玉となり、あたしは膝から床にくずおれてしまった。ユーラシアの西の果てから東の果ての果てまで流れ着いたこのあたしに、もう青春の日々は帰らない。
 膝のあいだで古新聞、古雑誌ががさごそ鳴った。手にとって見ると、みな、あたしには興味のないイタリア語や英語の新聞、雑誌だった。ロシア語のものも、わずかながら、ふた山ほどあった。整理しきれずに、かといって処分も出来ずに、こんなに溜めこんだのはいったい誰なのだろう?きっとまえの住人に違いない。竜次のやつ、チリ紙交換に出すくらいしたらいいのに。
 隣が貸しビルの倉庫西側の壁際には、床から手の届く高さまで、段ボールの空き函がこちらに口を開けてびっしりと積まれていて、右半分にイタリア語の書籍、左半分に英語と日本語の書籍、中央二列に、地図・辞書・辞典類とロシア語・スペイン語の書籍がぎっしりと詰め込まれていた。中央最下段には、ポーランド語・中国語・韓国語・ギリシア語・ラテン語などの書籍がいっしょくたに詰め込まれていた。こんなにたくさんの本を濫読する暇人はいったい誰なのだろう?きっとまえの住人に違いない。置きっぱなしというのも困ったものだ。処分しないのなら、いま流行りの天井まで届く黒いシックなシステム棚でも据えて並べれば、インテリア代わりくらいにはなるものを、竜次のやつ、不精で無神経なんだから。
 運河に面した倉庫東側の壁いっぱいには、何の変哲もない運河上の眺めを描いた、ナイフで掬った暗い絵の具を画布に厚く重ねただけの単調な同じ画題の大小さまざまな油絵が所狭しと架かっていた。明り取り窓の真下、ガレージの床にまで、営業車のクラウン・コンフォートと自家用のスカイライン、それに洗車スペースを除いたコンクリートの床全体に、大小さまざまなカンバスが所狭しと並んでいた。きっとまえの住人はよほど風変わりな画家だったに違いない。さっさと片付けて、自分の好きな絵を飾ればよいのに、竜次のやつ、指一本動かそうとしない。あたしのスペースを決めて、あたしの好きな絵を一枚だけ飾ろう。予算は今朝見つけた食器棚の三百万円しか充てられないけれど。出来の良い複製を何枚も買うくらいなら、無名の画家のものを一枚。あたしも免許を取ったら、真っ赤なスパイダーを置くスペースを確保しなくては。でも、それまで竜次と一緒にいるかどうか、分かったものではない。 二ブロック先に大きなマンションの建つ倉庫南側の壁際にぽつんぽつんと並んだ二棹の中古洋箪笥、それだけは扉を開けて見なければよかった。左側の中古洋箪笥の扉を開けて真っ先に目に飛び込んできたのは、よく手入れされて黒光りのする猟銃五挺だった。渡り鳥などを撃つのではない、大鹿や熊も倒せそうな、スコープを付ければ狙撃用にも使えそうなしっかりした銃ばかりが、実包も呑んで、いますぐ撃てそうな風情で立てかけてあった。あたしはばたんと扉を閉めてしまった。眼を凝らして、さらに奥に並ぶ人殺し用の自動小銃十数挺なんて見たくもないもの。どきどきする胸を押さえて右側の中古洋箪笥の扉を開けてみれば、こんどは日本刀七振りがあたしの目に飛び込んできた。いずれも無銘の古刀が、いまにも鞘走りそうな風情で立てかけてあった。あたしはばたんと扉を閉めてしまった。さらに奥に無造作に積み重ねられたドスやヤッパなど、見るだけでぞっと鳥肌の立つ性質だったから。きっとまえの住人が処分に困って、そのまま置いていったのだろう。なのに竜次ったら、慌てて通報もしないなんて、無神経にもほどがある。あたしには関係ないっと。何も見なかったんだから。黙って他人の扉を開けたりなんて、あたしはしませんよう。
 路地に面した倉庫北側はむろん、車の出入り時に開閉するシャッターがいまは固く閉じて、外から鍵まで掛けてある。シャッターの左側には車の各種部品、右側には車の補修用具・道具類がいかにも竜次らしくあちらこちらに散乱していた。あたしが脱出用に使ったジャッキもあのままに出口際に転がっていた。簡単な補修くらいのことならば、その場でこなしてしまうのだろう。いかにも車好きで不精な竜次らしい玄関先の風情だった。
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 コルトレーンのサックスに合わせてフランスパンで作ったサンドウィッチをカティサークの水割りで喉に流しこんで、手早く朝食を済ませたあたしは、後片づけと掃除は後回しにして、ぷいと襤褸倉庫の新居を出た。北欧の港町で育ったあたしはやはり海の近くにいると落着く。吹く風ごとに運ばれてくる潮の香りが、道端の春めいた緑にも目を注ぐ余裕をあたしに与えてくれる。いずれは埋立地なのだろうけれど、町工場や倉庫の跡地に通り沿いからどんどん新築マンションが立ち並ぶなかにも、路地裏に一歩足を踏み入れると、その一角だけに下町の風情がしっかりと根づいている、月島は北欧人のあたしから見てもかなり奇妙な町だ。勝鬨橋を渡って築地に入る。かつては跳ね橋で船を航行させたというこの橋は歩いて渡ると、かなり渡りでがある。大国ロシアに勝ったことがその橋の名前の遠い由来だという、それほどの由来をラトヴィア人ならば決して忘れはしないだろうに、いまの日本人は跳ね橋のあることも忘れて晴海通りの渋滞だけを気にしながら車で通り過ぎてゆく。竜次の仲間の〈マスクマン〉こと吾郎さんは、幼稚園へゆく前の年に、バスケットにお弁当を詰めて、疎開先の田舎から戻りたての両親に連れられて、この橋の開くのを見に来たという。「ほら、この橋のこの石の上にせがんで坐って、おれは駐留軍MPに記念写真を撮られて、母さんは酷く怖がっていた。ほんの数年前に両国の家を焼夷弾で焼いたのも同じアメリカ人だからだ」と、竜次に話して聞かせたそうだ。
 もう一人の仲間〈火の玉小僧〉こと洋二はこの橋詰に建ったばかりの高層マンション最上階に越してきたというけれど、あたしは見上げる気にもならなかった。橋を渡り終わるころにはもう空腹を覚えていた。築地市場に紛れこむ。おのぼりの観光客で溢れていたから、場違いの北欧美人のあたしもジーパン姿にサンダル履きだし、さして目立たなかったことだろう。場内の横丁で人だかりのしている二軒目が竜次の教えてくれた〈鮨文〉だった。暖簾の前に並んで待っていると店の人が配ってくれた紙コップの日本茶が空きっ腹に滲みて、ようやくありついた〈おまかせ〉は本当に美味しかった。このころには、起こってしまったことは別として、かなり竜次を赦す気になってしまっていたのだった、あたしは。新大橋通りに出て、場外の丼屋で、鮪丼もぺろりと平らげてしまった、こちらは安いのに美味しい。あたしはぶらぶら歩くことで、自分を取り戻しつつあった。日本で受けた仕打ちの借りをきっちりと返したなら、できるだけ早く、父の国イタリアへ行こう。竜次とのことで道草を喰っている暇はない。でも、あたしの心へよりも早く、あたしの身体に巣食ってしまった竜次、憎らしくて愛しい竜次!
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 最初の一、二週間、襤褸倉庫の新居での竜次との奇妙な同棲生活に身体を慣らしながら、あたしは密かにひたすら竜次を観察した。驚いたことに、倉庫内の膨大な書籍類を暇さえあれば片っ端から読み飛ばしているのは、竜次だった。
「リュウ、何が面白くて、そんなに本ばかり読むの?」
「ふむ、ああ」
 癪なことに読書中の竜次からは何を聞いても、見当はずれな生返事ばかりしか返ってこなかった。あたしは百パーセントではなくても、九十八パーセントまでは確実に無視されていた。たまの公休に、雨が降ろうと雪が降ろうと、それこそ夜明けまえにベッドから脱け出すやイーゼルを担いでぷいと出てしまうのも竜次だった。
「リュウ、なぜ同じ橋の上からばかり画くの?」
「ふむ、ああ」
「痛っ」ふたりでたまの外食中にも生返事をするから、向こう脛を思いっきり蹴ってやった。
「どうせなら、隅田川に架かる橋ごとに一枚ずつ画きなさいよ」
「ふむ、ああ」
「痛っ」こんどは左足を軽く蹴って、あたしはばからしいから食事に専念することにした。夜中にふと目が覚めると、竜次が端末に屈みこんでいる。
「リュウ、何してるのよ?」
「書いているんだ」
「何を?」
「小説」あたしはまたばからしくなって、寝返りを打つと朝まで寝てしまった。要するに、東京のタクシードライバー竜次は暇さえあれば本を読むか、同じ絵を画くか、小説を書いていた。そうでないときにはむろん、あたしギャビーとセックスをしていた、ときには激しく、ときには優しく、ときには心ここにあらずのうわの空でマンネリ気味に。けど一度として同じ味わいはなかった、あたしと竜次のセックスには。
「リュウ、あんた、いつ寝るの?」
「車で仮眠するから、問題ない」
「まさか、運転中に寝てないでしょうね?」
「そりゃ、信号待ちや長い一本道でときたま寝てしまうが、一秒以内だからノー・プロブレム」
「まあ、危ないでしょ、ぶつかったら、相手が可哀そう!」
「なら、酔払い運転の車にだけぶつかるよ!」
「ばか!」
「あたし、イタリアへ行くわよ」
「なら、おれも行こうかな」
「あんたがイタリアへ行ってどうするのよ?」
「絵の勉強をする。絵と彫刻と建築を見るのなら、イタリアが一番だ、文学も音楽も、そしてサッカーもだ!」
「ふん、なら、独りで往けばいい!」
「ギャビー、おれがローマ女やヴェネツィア女と仲良くなってもいいのか?」
「だめ、だめ、絶対だめ!トリーノ少年やミラーノ少年とでも許さない!」あたしの懸念は的を射ていた。竜次はいつでもどこにでも天使たちを探していた。あたしの身体のなかにも天使が隠れていはしないか、いつもひっくり返して探すくらいだった。
「でも、その前に東京ですることがあるでしょ?」
「何だ?」
「六本木の人買いどもを退治すること」
「お安い御用だ」
「客と女衒どももよ」
「客と女衒どももだ」あたしと竜次はその作戦を練った。
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 ダッシュボードに「教習中」の札を立て、右腕に「指導員」の腕章をつけた竜次は運転席に、左腕に「教習生」の腕章を捲いたあたしは助手席に乗りこんだ。黄昏の乃木坂を登って左折、六本木交差点へ向かった。建築工事中の防衛庁跡地まえを過ぎ、ドラム缶スープの〈天鳳〉まえを過ぎて、地下鉄の駅前交差点にさしかかったとたん、雑沓のなかに見覚えのある背中二つを発見した。
「ほおーい、トミー!ケン!」考える間もなく、あたしは叫んでいた。振り返ったトミーとケンの顔が歪む。あいつらも必死であたしを探していたのだ。すかさず竜次がハザードを焚いて路肩に寄せ、停車すると同時に後部客席の自動扉を開けた。ドアが開ききるのももどかしく、二人は乗り込んできた。
「おい、ギャビー、てめぇ、いったいどういう料簡だ、ぁん?」
「連絡もしねぇで、ふけやがって、かぁっ!」
 トミーとケンが口々にあたしをなじる。車はそのまま地下鉄駅前を左折して、墓地脇の狭い坂道を下る。あたしは応える気にもならなかった。あたしはそっと竜次に合図した。鈍い竜次の左腿を思いっきり抓りあげた。
「ひえっぃ!」竜次がギアをニュートラルに入れ、アクセルを踏む。
たちまち二人は、後部座席フロアに開いた異界への入り口に、吸い込まれていく。塀越しに墓地の卒塔婆の頭だけが見える。もがく二人を包みこんだ小さな煙がそちらに流れていった。《さよなら、トミー、ケン》
 あたしたちは赤坂に路駐して白湯麺をかきこんで、山王、溜池を右折、広い坂の二股を左折して、飯倉に向かった。一般客は乗せないのだから、当然、〈回送〉を表示してある。飯倉を右折して、機動隊のバスの百五十メートルほど先で車を路肩に寄せ、あたしたちはゆっくりと一服した。時間はたっぷりとある。やがてゆっくりと移動して片町を過ぎ、ロアビル前を張った。ほどなく隣の細いビルから、忘れもしないあの男がゆらりと出てきた。あたしをリーガの港町で甘い言葉で釣って、横浜へ連れてくるなり、男を誑しこむ術をあたしに叩き込んだあの男、佐竹だった。右手の合図に竜次が車をそっと出した。ハザードを焚きながら、佐竹の歩速にあわせるように徐行してゆっくりと追い越したけれど、路駐の車の列に邪魔されて、佐竹はこちらに気がつかない。あたしは助手席の窓を下ろして手を振った。やっと男がこちらに気づく。竜次が車を止めてドアを開けた。男はさっと乗り込んだ。
「ギャビーちゃん、生きてたの?堅気におなりかい?」あたしは応えない。車はそのまま六本木交差点を抜けて、ガソリンスタンド手前を左折して、闇のなか、星条旗通りの坂を下っていた。
「おいっ、運転手、てめぇもぐるだな?」そう喚いたときには男はとうにビジネスマンの化けの皮を脱いでいた。真後ろから伸びた左手があたしの喉仏を掴み、右手はチャカの銃口を竜次のうなじに押しつけていた。あたしは身動きどころか、息もつけなかった。とぼけ顔で竜次がゴーストタクシードライバーの基本動作を着実に実行した。たちまち佐竹は異界の口に呑みこまれ、発砲する暇もなく、白煙とともに消えてしまった。
 青山墓地への狭い坂の一方通行入り口脇に車を止めて、あたしたちは屋台に毛が生えてふやけたみたいな〈かおたん〉の小屋へ入った。ラーメンセット二つを注文して、長い床几に並んで腰を下ろした。さっそく突き出されたお新香の小皿と白いご飯に箸をつける。塩味だけのこのお新香がなんとも美味しい。思わずご飯を半ばまで頂いてしまったところで、中皿に山盛りの温野菜が出てきた。基本的には茹でた萌やしに叉焼の細切れをまぶしただけのものなのだが、この萌やしが実にしゃきしゃきして叉焼の味と馴染んで実に旨い。隠し味に桜海老か何かを使っているのも庶民的だ。台湾人らしい店の者同士の会話が能天気な米軍放送に混じって聞こえてくるのも耳には心地よい。おまちどうの麺のスープには独特のやや甘みがあって、飽きたら大蒜を加えると気にならない。麺も、まあ、確りした物だ。これで一人前九百円なら安いほうだ。気がつくと、竜次が目を真ん丸くしてこちらを眺めている。《さっき白湯麺を喰ったばかりなのに、よく、そう、腹へ入るな!》
と、顔に画いてある。
《べらぼうめ、冒険は腹が減るんだ!》あたしは言葉もかけてやらなかった。餃子セットにも食指は動いたけど、それは次にした。勘定はむろん竜次が払った。その夜、朝までに、いかにも坊ちゃん坊ちゃんしているくせにあくまで助べえな財務官僚一人と、どこまでも吝嗇な外務官僚一人の、あたしのかつて馴染みの顧客二人を異界送りにしてやったのが、戦果のすべてであった。大物は掛からない。ロシア・マフィアのあの男はどこにフケてしまったのだろう?どうも満腹のせいか、勘が鈍った。やはり人間、つねにハングリーでなければ、良い成果は上げられない。今日はあたしギャビーと竜次がコンビを組んでの初出動、小手調べの初陣の戦果としてはまずまずといったところだろうか。事が済むと早々と寝入ってしまった竜次を尻目に、あたしは咥えタバコでベッドを抜け出して、竜次の端末に向かい、もう明け方近かったけど、昼までかかって、一章だけあたしの小説を打ち込んだ。
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  それは羊水の海を漂う胎児の額に射したひと筋の陽の光にも似ていた。あたしは瞬時に覚醒し、事態の把握に努めたけれど、事態を少しずつ着実に把握するにつれて、あたしの戸惑いと絶望は深まるばかりだった。あたし、ヴァルヴァーラ・アレクサンドゥローヴナの肉体は消滅し、残ったのはいま洋二の身体を覆っているあたしの金髪と白い肌、冷蔵・冷凍庫にしまわれてある血と肉、青い目玉、臓腑、骨格、その他だけになってしまった。否、完全に残っているものがある。それはあたしのこの意識だった。あたしの意識の触手はまずおのれの目覚めた場所、ここ、洋二の脳中を探り、驚いてしまった。呆れたことに、この男、洋二は、大脳細胞の三割方しか使用していなかった。残り七割近くの脳細胞が未使用の状態だった。確かに、「おれは生まれてこの方、読みきった本は一冊もない」と、豪語するだけのことはあった。あたしは躊躇いもなく七十パーセントの脳細胞をおのれのものとした。うち、四、五パーセントの脳細胞は洋二が使用中であったものを、蚕食、接収したのだった。どうしてこのような事態が起こったのか?「科学的に説明しろ」と言われても不可能だ。
一種の憑依現象かもしれなかった。昔から物の怪はまったくの赤の他人にも取り憑くものだから、ふつうの人間であるこのあたしが、なんの咎もないあたしを拉致・陵辱し、あまつさえ文字通り生皮を剥いで、食べてしまった憎さも憎いこの男、洋二に取り憑くのはごく当然のことだろう。あたしはまだまだ生きていたかった。だとしたら、ここは冷静に対処、行動しなければならない。取り憑いて、即座に狂い死にでもさせてしまったなら、あたしの気も少しは晴れようが、あたしの意識も一緒に死んでしまいかねないのだから。目覚めたこの場所を活用するほかはない。幸い、洋二の身体は病気しらずの頑健さで、スポーツ万能の身体機能は、あたしの意識が棲みつくには贅沢すぎるほどに思えたくらいだった。
 あたしは胎児のころに被曝したチェルノブイリ被曝児で、おのれの健康状態にはつねに不安を抱いてきた。若さに耀く美しさの陰で、つねに死の影に脅かされつづけてきた青春だった、と言ってよい。それがいま、いかに無鉄砲、無分別な日本男児とはいえ、見方を変えれば、頑健このうえない肉体と身体能力を獲得できたのだった。これを活用しない手はない。《こうなれば、金髪・黒い眸のララにだってなりきってやる!》あたしは覚悟を決めた。そんな覚悟を決めたのも、大きな姿見に映る金髪・黒い眸の裸身のララが、ふと、金髪・青い眸の裸身のヴァルヴァーラにも増して、妖しく好ましく思えてしまったせいかも知れない。
24
「どう、痒いでしょ? 痛痒い、といったほうがいいかな?」
「だ、誰だ、おまえは?」
「そんなに股のあいだを掻き毟って!」
「知ったことか!余計な口を利きやがって、誰だ、出てこい!」
「そこ、そこ!あんたの袋と菊座のあいだ、蟻の門渡りとかいうんでしょ、明日そこが口を開けば、あたしの声ももっとはっきり聞こえて、あたしが誰か、分かるでしょ」
「そ、その声は?」
「そう、あたし、あんたのララよ!」
「そんなばかな」
「鏡をよくご覧!」
「ん?」
「あたしの言葉を喋っているのはあんたの舌だよ。あたしの舌はあんたが舌鼓を打ちながら、食べてしまったからね」
「あわわっ」
「もう、分かった?あたしはあんたの中に居るの」
「ララ!」
「そう、あたし、あんたの愛しいララよ!」
「生きていたのか、ララ!」
「よくもあたしの生皮を剥いで、食べてくれたわね!」
「済まない、ララ!できることなら代わってやりたかった、おれがララに、ララがおれに!」
「ふん、済まないで済むなら、警察は要らない。あんたは十回くらいの死刑では足らないだけのことをやったんだ。オームの教祖と同じだよ。車裂き、鋸引き、皮剥ぎの刑も復活させなければ……」
「おれはこの眼を、黒い両目を刳り貫いてしまいたい!」
「ふん、およし、いまさらオイディプース王を気取るのは。蛇を叩いて男から女に、また蛇を叩いて女から男に返ったという盲目の預言者テイレシアースだって、なおさらあんたには似合わない。あたしの皮膚があんたの身体に癒着し始めたころならば、あんたの黒い両目を刳り貫いて、あたしの水色の眸を埋め込めば、あるいはあたしの水色の眸は甦ったかもしれないけれど、いまさら、もう遅い!」
「ララ、おまえは復活したのか?」
「甦りはしたけれど、あんたの身体のなかだから、嬉しくもない。洋二、あたしはあんたの生皮を剥いだりしないよ。でも、あんたが死ぬまであんたの中に居坐って、この借りはゆっくりと返さしてもらうからね」
「償えるものなら、取り返しがつくものなら、おれはどんなことでもする」
「そう、なら、あたしは丈夫な女の子を産むことにする、あんたも女の子を産みたいでしょ?」
「よしてくれ、ララ。おれが腹ボテになるなんて!産みの苦しみなんて、男なのに陣痛なんて、味わいたくもない!」
「そのためにはまずよい父親を探さないと。子は愛の結晶なのだから。男と愛しあうのがどんなに素敵なことか、あんたも身をもって知れるわけよ」
「それだけはやめてくれ、ララ。おれの身体で、ほかの男と愛しあうなんて!」
「ふふ、あんたの一物で、すぐ下のあたしのあそこを貫こうなんて、いくらやっても無駄だと思うな。固ければ曲がらないし、曲がっても固くなければ貫けやしない。ま、試すのはあんたの自由だけど。おやすみ」
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 まだ蝸牛の個タクに乗り換えてから半月足らずの洋二だったが、日中はぴたりと営業に出なくなった。図抜けてのっぽで若禿の〈火の玉小僧〉こと水田洋二と、金髪に黒い眸の大柄美女ララとでは、容貌に落差がありすぎて、免許証・乗務員証の写真とは別人であることが一目瞭然だったから。一般車に乗る分には、あたしV・Aの免許証で事足りた。いくらカラー免許証でも目の色までとやかくいう警官はいないだろう。それでも海外旅行の際には、あたしのパスポートを使うなら、空色のカラーコンタクトが必要となるかもしれない。青タンの時間帯、つまり深夜早朝割増の午後十一時から午前五時までの時間帯しか営業しなかった。それもことごとくゴーストタクシー営業だった。洋二としてはララの素顔を垣間見た可能性のある乗客は、たとえ疑念を抱かなかったとしても、一人残らず異界へ送りこまなくては気が休まらなかったのだ。それでなくてもララ洋二として、体内に他人のあたしを擁しての乗務は気骨の折れることであったに違いない。こうして日本初のゴーストタクシー専業車が生まれた。この車にたまたま乗りあわせた乗客は間違いなしに異界へと送りこまれることが出来るのだった。最近、でんでんむしばかりが深夜割増を三割から二割に値下げしたために、わざわざ白い個タクを選って乗り込む、金はあるくせにセコイ酔客を片っ端から異界送りにしたことだった。あたしとしてはタクシー乗務はむろん初めての経験で何もかもが新鮮で面白かったけれど、反面、いかにサービス業とはいえ、目的地まで乗せて料金を貰うだけの一見の客に、ああまで恭しくせねばならないのかと、日本式過剰サービスをまたも鼻先に突きつけられた気がして、暗い気分になりもしたし、《二種免が泣くぜよ!》と洋二の背中をどやしつけたくもなるのに、当の本人の体内に間借りしているこの身としてはそれもならずに苛立たしい限りだった。
 それでも後部座席フロアに異界への口が開く、あのゴーストタクシーシステムだけは、ベラルーシでもロシアでも見たことも聞いたこともなく、言われたとおりギアをニュートラルにして、アクセルをそっと踏んだあとに起きた出来事は、到底この世の出来事とも思われず、鮮烈な衝撃であった。そんな衝撃もやや収まりかけたころ、あたしの頭に閃いたものがある。《これであいつらを一人残らず、異界送りに出来る!》このことだった。都心に向かう車中でハンドルを握る洋二に相談を持ちかけると、一も二もなく賛成した。
「そりゃあ、何の罪科もない、銭も少ない堅気の一般市民を異界に送るよりは、ロシア・マフィアだろうが、日本ヤクザだろうが、少しでも悪いリッチな輩を片っ端から異界送りにしたほうが、こちとらの懐にもいいし、まっとうな社会的貢献ってもんだ」と、相変わらずややずれた納得の仕方ではあったが。こうしてあたしたちララ洋二の〈六本木界隈浄化作戦〉が始まった。手始めに、何も知らないあたしV・Aを六本木の苦界に沈めた日露の悪党どもをあらかた異界送りにし、さらにめぼしいセックス産業業者どもを漁っていたところ、しばしば洋二の仲間、優男の竜次の車と遭遇することが重なった。驚いたことに優男の竜次は助手席に金髪碧眼の北欧美人を乗せていた。さっそくハザードを焚いて、路肩に車を寄せ、互いの情報交換をすることにしたのはいうまでもない。左腕に「教習生」の腕章を捲いたその北欧美人は「あたしはギャビー」と名乗って、「指導員」の腕章をつけた竜次を振り返った。目のまえに金髪、黒い眸の大柄美人運転手ララに立たれて、根が素朴な竜次は口も利けなかった。あたしが実は洋二だと素性を明かしてもぜんぜん信用しなかった。それはそうだろう、のっぽで若禿の〈火の玉小僧〉こと水田洋二とあたしでは容貌に差がありすぎた。それは後日、洋二のマンションへ竜次が確認に来ることとして、とりあえず、この界隈を流している理由を告げると、驚いたことに竜次とギャビーもまったく同じ目的でこの界隈を流しているのであった。さっそく共闘を組むことにしたのはいうまでもない。
  次の二十日間で、文字通り二心同体のあたしたちララ洋二組と、ギャビー竜次組は六本木界隈の清掃をあらかた終えてしまった。今回の作戦を伝え聞いた仲間の〈マスクマン〉こと具志吾郎が加わってきたのは、作戦も最終段階を過ぎようというころのことだった。いまも〈マスクマン〉の地道な努力は続いている。セックス産業は広域暴力団には恰好の資金源の一つだから、それを密かに潰すことは世のため人のためだから。その吾郎さんから、六本木の次は渋谷、渋谷の次は新宿歌舞伎町で、こういう共闘作戦を展開しようと持ちかけられると、むげには断りにくかった。
「なに、池袋、浅草、錦糸町は心配いらない。〈乱喰い歯〉こと堀切青年を始め、新たに加わったゴーストタクシードライバーの若手たちが、数グループで対処してくれるから。千葉、川崎、横浜もだ」とのことだった。その吾郎さんは、のっぽで若禿の〈火の玉小僧〉こと水田洋二が消えて、金髪、黒い眸の大柄美人運転手ララが目のまえにいることに、なんの不審も示さなかった。ただときおり、油断のならない眼差しをあたしに投げかけて来はしたけれど。優男の竜次は竜次で、近所なのに、一向に、勝鬨橋橋詰の洋二のマンションにあたしたちを訪ねては来なかった。自分だって並外れた美人なくせに、意外と嫉妬深そうな、あのギャビーに固く止められているのかも知れない。
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 「栃木へ行くぞ!」ハンドルを握る洋二の声に、寝起きの悪いあたしがあいつの頭蓋骨の片隅でようやく目を覚ましたころには、真っ白いアキュラはすでに東北自動車道の花園インターを通り越すところだった。寝ぼけ眼のあたしにハンドルを譲ると、洋二はすぐさま仮眠に入った。二心同体のいいところは、高速運転中でも運転手の交替が実にスムーズになされることだ。身じろぎ一つする必要がない。「真っ直ぐ!」と、性質の悪い酔客そのままの科白を吐くや、図太く寝入ってしまったあいつの身体だけを引き継いで、あたしは慣れない日本の高速道をひたすら北へ走らねばならなかった。地理に疎いあたしは「真っ直ぐ!」と言われた以上、意地でも真っ直ぐに青森までもひた走る気になっていた。メーターの針は百三十を指していた。あたしは軽くアクセルを踏み、針が百四十を超えないように気をつけた。これだと追い越し車線だけを走ることになるが、高速運転中の緊張感があるから、広い一本道でも眠気は差さない。それでもこの車の内側を百七十くらい出して追い抜いてゆくばかな車が三十分に一、二台はいて、あたしはその都度「死んじまえ!」と、声に出して毒づいてやる。百二十ないし百で走行車線を走ると、抜きつ抜かれつの車線変更が煩わしいし、無理な車線変更は事故の元だ。百キロ以下では相棒も熟睡していることだし、単調さに負けて、睡眠の足りたあたしでも遠からず寝入ってしまう。幸い一時間もするとあいつが目を覚まして、ハンドルを替わった。日光の一つ手前の今市へ行くと言う。今市インターで高速を降りて例弊使街道を南下、日光線文挟駅付近の一般道と私道の坂に挟まれた、やや傾斜した長三角形の空き地に乗り入れた。
 あたしは呆れてしまった。目のまえに一般道と私道の坂に押されてひしゃげたような平屋がある。これが洋二手造りのあばら家だった。立て付けの悪い玄関のガラス戸を押し開けて上がりこむなり、「どどーん」と和太鼓を打ち鳴らした。まったく人を驚かせることの好きな男だ、洋二は。実はこれが、夕方になると、手打ちの蕎麦を差し入れてくれた元バス運転手のお隣さんへの到着の合図だった。
もっとも驚いたのはお隣さんのほうだったことだろう。洋二が帰ったとばかり思って、茹であげた蕎麦を片手に玄関のガラス戸を押し開けてみれば、目のまえの上り框に外人の大女が仁王立ちになっていたのだもの。ともあれ、翌日は温泉村の露天風呂とプール、次の日は日光東照宮と裏見の滝、帰る日の朝は裏山で山芋掘りと、あいつはあたしの心を癒そうと涙ぐましい努力を続けた。
夜毎に宇都宮のカラオケに引っ張り出されたのには閉口したけれど。あたしは歌は好きだけれども、カラオケは大嫌いだ。昨夜は断って、文挟付近の真っ暗闇の寂れた町並み、田畑、墓地、雑木林を抜けて野っ原を、満天の星屑を見上げながら、青い闇の白むまでさ迷い歩いた。あの大詩人のモンターレだって、テノール歌手になろうかと迷ったことがあったっけ……空っぽの頭に、碌な想いは過ぎらなかった。あたしの頑なな心はそんなことでは容易に軟化しそうもなかったけれど、考えてみればあいつは妙な男だった。和太鼓の腕前は大したものだったし、唄は流しをやれそうだ。大工も出来るから、時間さえあれば、やや高みにある整地済みの裏の地所に、ほんとに独力で露天風呂、炉辺つきの別荘を建ててしまうことだろう。本人の話によれば、草月流の名取だという。水泳は指導員だし、栃木の田舎では大手デベロッパー相手に係争中の片意地な元不動産屋だ。温水器メーカーでアメリカ西海岸の販売部長も務めていたという。カウボーイハットが良く似合う。むろん、長身、ジーパン姿のあたしにもぴったりだった。「唐竹を真っ二つに割ったような男だよ、おれは」と本人は言っているけれど、分かりにくい男だ、あいつは。そのあいつ、いや、こいつの身体に宿り木みたいに巣食っているあたしは、脳髄に取り憑いているだけの、科学的には説明のつかない存在だし……こいつの外見はいまでは、眸の色こそ違え、以前のあたしそのものだし……
 そんな忙しい日々のある日、優男の竜次が勝鬨橋詰のマンションに洋二を訪ねてきた。あたしの姿をした洋二は竜次とバーボンを酌み交わしながら、半日かけてあたしとの経緯を洗い浚い竜次にぶちまけてしまった。以来、竜次はアケの日の晩には散歩がてら頻繁に、あたしの姿をした洋二、もしくはあたしV・A本人に、会いに来るようになった。そしてある日、話し飽いたあたしは食堂に引っ込むと、酔いに任せて、テーブルに額を載せたまま転寝を始めた。
27
「きみと同姓同名の女性の名前をタイトルにした詩がサルヴァトーレ・クァジーモドにあるよ、読むかい?」
「ええ」と、あたしは応えて、忘れていた。転寝していたテーブルの鼻先にすとんと着地した紙飛行機の翼に、竜次独特の細かい文字で、それは記されていた。
樺の木の乾いた枝が
内に緑を秘めて回転窓を叩く
モスクワの夜更け。シベリアがそのきらきら光る風を剥がしてゆく
泡入りの窓ガラスから、頭の中の縺れた
抽象コードから。ぼくは病んでいる――
いつ死んでも可笑しくないのはこのぼくだ。
まさしくぼくだ、ヴァルヴァーラ・アレクサンドゥローヴナ、
ボトゥキン病院の病室から病室へフェルト靴で
せっかちな目つきで歩き回る宿命の看護婦よ。
ぼくは死を恐れてはいない
ぼくが生を恐れなかったのと同じように。
さもなければ、思うに、ここに横たわっているのは別人だ。
たぶんぼくが、愛を、哀れみを、分かちがたい
自然を挽き砕く大地を、孤独の土色の音を
思い出せなければ、ぼくは生から抜け落ちてしまうかも知れない。
 紙飛行機の翼に書きこまれたボールペンの拙い細かい掠れた文字を丹念に追ううちに、なぜか、ぽろぽろと涙が零れ落ちて、あたしは大声を上げて泣いた。あたしは胎児のころに被曝したチェルノブイリ被曝児だ。
「甲状腺に異状が見られるものの、いまのところ、他はほかの子供たちと比べれば驚くほど健康だ、ヴァルヴァーラ!でもきみは、長生きは出来ないよ」と、告げられていた。それでも楽しかったベラルーシの夏。新ナローブリャ村で過ごした幼年時代。少女になったあたしは日本へ来て、進んだ被曝医療について学ぶつもりが、六本木のセックス産業に絡めとられてしまった。それを洋二に拉致されて、生きながら皮を剥がれて、いまは逆に洋二の身体を支配している、金髪・黒い眸のララ。
あたしが死んだら墓銘碑にはクァジーモドの詩連を、灯明にはあたしの青い目玉を浸けたコップのウォッカに火を点してもらおう。
夜中のあなたの手が火傷するほど熱い、ヴァルヴァーラ
アレクサンドゥローヴナ。ぼくの母さんの指先だ
激しさの下に長い安らぎを置いてゆくために
きつく握ってくる。あなたは人間的なロシアだ
トルストイの時代か、マヤコフスキーの時代の、
あなたはロシアだ、病院の鏡に映し出された
雪景色ではなく、あなたは
他の人びとの手を探すたくさんの手だ。
 その夜、あたしは竜次を帰さなかった。明け方近くまでふたりはふつうの恋人同士のように、やさしく愛しあった。青い闇の白むころ、竜次はあたしの尻を高く掲げさせ、あたしのかつての陰門から空しく屹立している洋二の一物を邪慳に握り緊めて、あたしの新たに口を開けた濡れそぼる花園と乾いた菊座を交互に激しく責めた。あたしはうめき、悶えて、そこには洋二の切ないうめき声さえ混じっていたが、泣きに泣いた。ふたり、否、さんにん、ほぼ同時に果てて、尻を浮かせたまま、伏せたとき、あたしは確信した、この夜、あたしは竜次の胤を宿した、と。やがてララ洋二の腹は迫上がり、月満ちれば、竜次ララ洋二、この三者合作の愛の結晶たる赤子を出産することだろう。詩人と大工と看護婦の倅であるこの子が、世界の救い主サルヴァトーレにならないと、誰に確言できよう。
28
 渋谷を背に左折して旧山手通りに入って、おれには縁のない瀟洒な黒と白のショーウィンドーの並びを尻目に、駒沢通りを右折してまんまと外側車線に入った途端、長い黒髪に痩せたジーパン姿のその少女がさっと手を上げた。
「祐天寺まで。でも、もっと遠くへ行ってもいいのよ」
「えっ?」
「あんた、ゴーストタクシードライバーでしょう?」
「むっむむうっ」
「あたしも異界へ送りこむつもり?」
「そんなことはしない。あんた誰?」
「それがいいわね、あたしは〈神霊少女〉夏子。あんたたちを指導するために下界へ降りてきたの」
「何のために?」
「革命を成就するために」
「ならばいい、おれはあんたの僕だ」
「しもべって?」
「身体を張って、命令を実行する、鉄砲玉ってこと」
「そりゃいいわね、小父さん。でも、意思のない鉄砲玉は、革命には要らない!」
「あんたは本物の……」
「〈神霊少女〉夏子。もうあたしを試さないの、〈マスクマン〉吾郎ちゃん?」
「ううっ、あんたはほんとに〈神霊少女〉夏子なのか?」
「疑り深いわね。あんたたちの革命のために欠けていた者、それがあたしよ!」
「そうか、いずれ、あとは革命の過程で明らかになる。ともあれ、いまはあんたがおれたちの指導者だ。どこへ行くんだ?」
「一斉蜂起へ」
「諒解。この路、真っ直ぐか?」
「その先の角を左へ曲がって、また角を左、開いてる門から中へ入って」
 おれは黄昏の淡い光のなか、〈神霊少女〉と称する少女夏子を後部客席に乗せたまま、上野毛あたりで、崩れかけた築地塀沿いに車を寄せて左折、また左折して、路地の左側に口を開けている門の中へ、吸い込まれるように車を乗り入れた。車寄せでドアを開け、エンジンを切り、降りた夏子のあとを追った。
「こんな広い屋敷に独り暮らしか?」
「独り暮らしじゃないわ、二人暮しね」背後で澄んだ声がして、夏子よりはやや背の高い髪の長い少女が庭先の薔薇のトンネル、その薄闇のなかから現れた。気がつけば、ふたりとも洗い晒しの紺のジーパンに真っ白い衣裳を身にまとっていた。
「こちらは〈透視少女〉民子、あたしの無二の親友にして同志、他人の心と未来が見えるのよ」
「おれは〈マスクマン〉こと具志吾郎、ゴーストタクシードライバーグループのアナーキストだ」
「知ってるわ。とりあえず、ここがあたしたちの一の拠点、車はここに七、八台、あとは塀裏の空き地に十四、五台は止められるわ。必要なものは何でも揃っているし」
「武器もか?」
「ばかね、あれは見せるためにあるの。ほんとに必要なのは、頭脳と勘と幸運だけよ」
「幸運と度胸と的確な技量・判断力だと言ってもらいたい」おれが〈透視少女〉民子と話し合っているあいだに〈神霊少女〉夏子は独りずんずんと、薄暗い屋敷の奥に入ってしまった。
 屋敷の奥にも隅にも神棚らしきものはなかった。
「〈神霊少女〉と言うから、巫女の類かと思ったが?」
「あたしは天照大海神の直系の子孫、あるいはそのひとかもね。子孫だったら祖先を拝んで当たり前でしょうけど、そのひとならば、そのあたしがおのれを祭る神棚を据えて拝んだら可笑しいわよね。あたしは天照夏子、大海夏子ともいうけど、ただ夏子と呼んでくれていいのよ」微笑んで、つけくわえた。「なかには多産みの神と呼ぶ方までいらっしゃるけど、そんなの、うら若い乙女をつかまえて失礼よね」
 コップ三つに冷えた緑茶を入れてきた〈透視少女〉民子がお盆を差し出した。
「キリストや釈迦さえもなんども人の姿を借りてこの世に出現しているわ。まして天照や大海の神が人の姿を借りてこの世に出現したところで、何もそんなに驚くことはないでしょう?」と、民子が見てきたようなことを言う。おれは切子硝子の表面にびっしりと露を浮かべたコップを掴んで一口呑んだ。美味い。ふと見るともなく、夏子の胸元に据えられたコップから、緑茶が一本の管状の液体となって弧を描いて宙を飛び、夏子の涼やかな唇に吸い込まれるのを目で追っていた。夏子が微笑む。おれの目は点になっていたことだろう。脇で民子が冷えた緑茶をごくりと飲む。夏子のかたちの良い素足が床板から三十センチも浮き上がり、身体全体が透きとおってきて、宙に直立した夏子の透明な裸身が眩いばかりの光を放つ。おれの膝は笑い、他愛もなくおれは床に尻餅をついていた。
「あんたはほんとに素直なひとなのね」と、屈んで民子がおれの耳元で囁く。「だから初対面でこんな夏子の姿を拝めたんだ。あたしだって、まだ数えるほどしか見てないのに!」
 おれは口も利けなかった。気がつけば、夏子はすでに着地して、透明な光を放つ美しい裸身はすでに失せ、洗い晒しのジーパンに真っ白い衣裳を身にまとった最前の夏子が、くるりとそっぽを向いて立っていた。西陽を受けて、宙を向いたその鼻筋がなんとも可憐だった。おれも意識することなく立ち上がっていた。
 そのとき裏庭で自転車のベルが鳴り、自転車の倒れる音と同時に廊下をパタパタと走ってくる軽い足音が迫ってきて、小柄な少女が障子から可愛い顔を覗かせた。
「こちらは〈天才ハッカー少女〉涼子」
「こちらはゴーストタクシーの〈マスクマン〉吾郎さん」と、相変わらず民子が紹介の労を執る。「あたしたちはこれで全メンバーが揃ったわ」と、おれの顔を見る。夏子は微笑んだまま無言だった。気がつけば三人の少女は、いずれも仄かな淡い光に包まれて、微笑みながらおれを眺めている。夏子を真ん中に真っ直ぐ立った三少女は、いずれも床から十センチは足が離れて、空中に浮揚していた。《ここは異神の館なのか?目の前にいるのは紛れもなく三女神だ!》
「ひとまずおれはこれで帰る。明日、ララ洋二とギャビーと竜次を連れてくる。世俗の話はそれからだ。さらにそのあとで若い仲間たちと引き合わせることになる」
 おれは蒼惶として上野毛の古屋敷を後にした。確かに、これまでに全国のゴーストタクシードライバー千五百余名を結集して、広域暴力団相手の撲滅戦にひそかに勝利を収めてはいた。われわれの〈異界送り〉によって、幹部以下の組織員に突如として原因不明の大量の欠員を生じた関西と関東の暴力団同士が互いに疑心暗鬼に陥って、血で血を洗う抗争に明け暮れ、ついには双方とも壊滅状態に陥ったここ数ヶ月間でもあった。お蔭でわれわれゴーストタクシー仲間は厳しい実践を通して闘争の技を磨き、相互の理解と友情と連帯を深められたのであった。しかし組織としてはより良い世界という共通の目標に関して緩やかな連帯と確実な相互支援は見られるものの、思想的には、おれの未熟さも手伝ってか、まだまだ未組織の状態であり、アナーキーな革命集団からは程遠かった。そこへこの夏子・民子・涼子三女神の唐突な出現であった。果たして、一革命兵士として素直にこれを受け容れれば良いのかどうか、おれ独りの判断には余るものがあった。そこで仲間たち、竜次とララ洋二とギャビーの冷静な判断に俟つことにしたのであった。
29
 上野毛の古屋敷に真っ先に、真っ赤なマセラーティスパイダーを乗りつけたのはギャビーだった。
次いでララ洋二の真っ白なアキュラ。竜次が愛用の濃緑色のスカイラインでやっと姿を見せたのは日も落ちてからだった。どこからともなくホロヴィッツのショパンが流れる座敷で、開け放した窓から流れこむ涼風に頬を撫でられながら、おれは胡坐をかいて、スコッチで喉を潤してはギャビーの横顔を盗み見ていた。美しい女だった。すらりとした足。あの足だけでもおれのものであったなら、あとは竜次にくれてやるものを!眩い夏の日差しが演出した濃い木蔭でギャビーは寝そべってタバコを燻らしていた。そこへ金髪、黒い眸の大柄な美女が現れた。ララだった。ララの姿をした洋二だった。二人あるいは三人はそのまま木蔭で親しげに何やら語り合っていた。おれはそのまま座敷にごろりと横になって転寝を始めた。耳馴れた竜次のスカイラインのエンジン音で目が覚めた。五人揃ったところで――ララと洋二は同体ではあるけれど、あくまで別個の人格であるので、二人と数える――みな広間に向かった。二階の屋根まで吹き抜け板敷きのその広間にはすでに〈透視少女〉民子と〈天才ハッカー少女〉涼子とが膝小僧を抱えて腰をおろして待っていた。肝心の〈神霊少女〉夏子だけが見あたらなかった。おれたちもてんでに膝小僧を抱えて坐りこみ、車座になって互いの自己紹介を終えた。真夏なのにひんやりした厚い板敷きの感触が尻に心地よかった。しゃべり疲れて、あたりを見渡せば、とうに日は暮れていた。腹も空いたことだし、いつまでも姿を見せない夏子を待ち草臥れてもいた。
 と、星屑の夜空に向けて唯一開いた天窓のあたりに、眩い光が炸裂して、太い光の円柱がおれたちの車座の真ん中まで降りてきた。みなが仰ぎ見るなか、宙に直立した夏子の透明な裸身が眩いばかりの光を放ちながら、光の円柱のなかをゆっくりと降ってきた。そして板敷きまで五十センチあまりのところで、空中に浮揚したまま、いちだんと眩い光を放った。
「マリーアさま!」
「聖母さま!」
ギャビーとララがわれを忘れて口々に呼ばわりながら、本能的に跪いて胸に十字を切った。
「確かに、あたしは聖処女マリーアとも呼ばれているわ」と、応えながら、〈神霊少女〉夏子が長い指先を伸ばして、微かに膨れたララの腹にスポットを当てるかのように指さした。実際、夏子の指先からは白い一条の光線が放たれ、ララの腹のうえに光の環が浮かんでいた。「けれども聖母と呼ばれるべきは、そこに世界の救い主サルヴァトーレを宿しているあなたね、聖母ララマリーア!」
 そのとき光の環を浴びて、ララの胎内で逆子の御子がぐるりと一回転したみたいだった。両手で腹を覆うララの額に光る右の手のひら、青い目に涙を浮かべて仰ぎ見るギャビーの額に光る左の手のひらを置きながら、〈神霊少女〉夏子が光る素足を床に着地させた。すると、光の円柱は消え失せて、夏子の裸身ばかりが透き通ってまばゆく耀き、ララ洋二の額に載せた右の手のひらからは赤と緑の光、ギャビーの額に載せた左の手のひらからは青い光が発している。強い光の衝撃に一瞬歪むかと見えたララの頬は、日頃のララと洋二の相克につかのまの平安が訪れて、穏やかな笑みを洩らす。青い光の下でギャビーは来日以来初めて見せる安らぎの表情を浮かべている。気がつけば、車座になった一同の真ん中で、ジーパンに白い衣裳の夏子が膝小僧を抱えて坐りこんでいた。その左右に民子と涼子。いずれも仄かな淡い光に包まれて、同じように膝小僧を抱えて坐りこんでいた。
30
 バッハ組曲二番ロ短調、あくまでも哀切なあのロンドの響きが軽やかに、風の地滑りにも似て、いくども虚ろな胸を吹き抜けてゆく。気がつけば曲はいつしかサラバンドからブーレに移ろっている。
おれはとうの昔に、あのときに失くしていたはずのこの命を、改めて擲つ決意をひそかに固めていた、遥かな革命と夏子のために。
「要するに、これは拡大全共闘方式で戦うほかはないな」気がつけば、ぼそりとおれは呟いていた。
「そのリーダーが〈神霊少女〉夏子なのだから、おまけにその脇を固めるのが〈透視少女〉民子と〈天才ハッカー少女〉涼子ときちゃあ、こんな異神ぞろいの三女神なのだから、これはもう超拡大全共闘方式ではあるな」と、竜次が頭を掻く。
「何だ、そりゃ?」と、ララの細い喉から洋二の野太い声が響く。
「要するに、連帯を求めて孤立を恐れず、いやしくも戦う者となら、世界中の誰とでも共闘するってこと。仲間に異神たちが加わったって、問題はない。戦い方はそれこそ、何でも有りってこと」竜次がよく言ってくれる。
「独りになってもこんどこそ最後まで闘うっていうことだ」おれはまたしても呟くほかはない。
「相手は?」洋二がそれだけは自前の黒い眼でぐるりとみなを見る。
「現体制」すかさず夏子が透きとおる声で言う。
「現社会」〈透視少女〉民子が和す。
「現文化」〈天才ハッカー少女〉涼子も声を重ねてくる。
「戦略は?」訝しそうにギャビーが訊く。
「ゴーストタクシー大作戦」待ってましたとばかり洋二が応える。
「それは戦術でしょ」と、ララがすかさず突っこむ。
「そのとおり、戦術にして、おれたちの戦略でもあるのだよ」心ならずも、おれは応えてしまう。
「いまは個々の戦術の有効性を検証しながらでなくては、肝心の戦略も立てられない、と素直に認めたらどうだ」竜次が相変わらず言ってくれる。
「意外と行動第一主義だな、悪くない」と、ララの姿をした洋二が頷く。
「具体的には?」心配そうにギャビーが訊いてくる。そこでおれは報告した。「現時点、二〇〇五年八月六日現在で、おれたちのほかに確認できた日本全国のゴーストタクシードライバーは千七百余名。うち、東京に五百五十名。東京以外の関東に二百五十名。京阪神に五百名。あとは北海道から沖縄までの全国各地に残り四百余名が散在している」
 竜次が胸算用する。
「千七百名が一出番で、体制側の人間十人を異界送りにするとして、一出番一万七千人。月十二出番として、二十万四千人。この作戦を三ヵ月間継続すれば、ざっと六十一万二千人もの敵を異界に送り込めるわけだ」
「しかしそれは多かれ少なかれ今もやっている、まっ、やや無差別攻撃の嫌いはあるが、日常的な数字だ」と、たちまち洋二が反論する。
「作戦発動と言うからには、一出番二十人、三ヵ月で百二十二万四千人くらいの敵は異界に送り込まなければ、東京だけでも革命前夜の状況は出来しないんじゃないか?」
「問題は、体制側の人間、敵だからと言って、そんなにも多くの人間を一概に異界送りにしてしまっていいのか、ということね」ギャビーが溜め息をつく。
「敵にだって、親も子も妻もいるわ。一概に異界送りにしてしまうなんてやり方は、まかり間違えば、ヒットラーのアウシュヴィッツや東条の七三一部隊、スターリンのグラーグ(収容所群島)の再来よ」 と、ララが釘を刺す。
「体制側の人間をみな異界送りにしたとして、反体制の人間ばかりが残ったとしたら、反体制という新たな体制にがんじがらめになるのではないかしら?」〈天才ハッカー少女〉涼子は冷めたことを言う。
「目下おれたちに唯一有効な闘争手段であるこの〈異界送り〉という手段の是非およびその限界について、闘争を継続しながら、議論を深める余地は確かにあるよな」と、さすがに竜次も認めざるをえない。「若い仲間の高梁なんかは国土交通省やタクシー近代化センターの小役人ばかり固めて〈異界送り〉にしているけれど、悪党はほかにもまだたんといるのだから、効率という観点からはやや考えものだ。銀座乗禁地区なんて運転手泣かせの天下の悪法は早晩撤廃させるにしても」
「ま〈個人の自由なイニシアティヴを出来る限り尊重する〉ってのがおれたちの闘争方針でもあることだし……しかし銃撃も爆殺も〈異界送り〉も目的は同じ、敵を排除することだ。この〈敵は排除する〉っていう思想が果たして正しいのかどうか?」美しいララの小首を傾げて洋二が珍しく考え込む。
「敵は折伏すべしというなら、それは宗教だろうが、敵は、異端は、すべからく殲滅すべしという宗教もあることだし」と、竜次がまぜっかえす。
「分かっているだろうけど〈異界送り〉というこの手段の限界はゴーストタクシーに乗り込まない敵には通用しないってことだ」おれは若干、補足しておくだけに止めた。「なお、ゴーストタクシードライバーのうち、適性のある者たちはハイヤー部門、社用車部門へも進出していった。当然彼らのターゲットは中堅上層以上となる。また、世界中のゴーストタクシードライバーおよびそのシンパにインターネット上で連帯を求める仕事はおれから竜次と涼子に引き継ぐことにしたい」
「異議なし!」と、みなは口々に応えた。
31
 古屋敷の板敷きの広間で車座になって夜の更けるのも忘れた議論でおれたちがくたくたになったころ、〈神霊少女〉夏子が車座の中心ですっくと立った。
「あたしが額に手を触れた者たちに限っては、客が〈異界送り〉の対象として相応しくないときには、〈異界送り〉は発動しない。たとえギアをニュートラルに入れてアクセルを踏んでも、ただ空しくエンジンが空転するだけ、当たり前のことよね」
 竜次もおれも、つい、夏子のほうに額を差し出してしまった、後悔する暇もなく。竜次の額に夏子の左手、おれの額に右手が載せられた瞬間、青白い火花が散って、確かに高圧電流がおれたちの身体を、額から尾骶骨まで突き抜けた。
「全国ゴーストタクシードライバー千七百余名の一人ひとりの額に、このように、あたしは手のひらを置くつもり。五十人ずつ全国三十四箇所に集まるとして、その会場もしくはアジトの設定、連絡、招集は、吾郎ちゃん、あんたが民子と一緒に責任をもってやりなさい」
 おれは頷くほかはなかった。見やると、〈透視少女〉民子も頷きながら言った。
「むろん、涼子、竜二、ギャビー、ララ洋二、あんたたちにも手伝ってもらうわ。一日一箇所をこなすとして、立ち上げと移動の手間も含めれば、いくら効率よく進めても、二ヵ月はかかるわね、それも相当ハードな」
「ならば事前、事後の調整に一ヵ月余分にみて、三ヵ月後の二〇〇五年十一月六日を期して、全国一斉蜂起だ」と、おれは宣言した。みな「おう」と応えて拍手した。
 翌日からさっそくスケジュールの策定にかかり、極秘裏に会場・アジトを設定し、全国のゴーストタクシードライバー千七百余名の一人ひとりに極秘指令を飛ばし、全国三十四箇所の会場・アジトに集まった彼ら五十人ずつの真ん中に〈神霊少女〉夏子は降臨し、一人ひとりの額に手のひらを当て、われわれは議論を重ね、連帯を深めて、アナーキーな結束を固めた。こうして連日の目の回るような慌しさ、心底くたくたになる激務のなかに、一斉蜂起の十一月六日はあっという間に、それこそ瞬く間に来て、瞬く間に過ぎて行った。何も〈一斉蜂起〉だからといって、当日、そこかしこで銃声が弾けたわけでもなければ、首都圏の要所要所が爆破されたわけでもないし、要人が何人も随処で処刑されたわけでもなかった。ましてや銀座の目抜き通りにバリケードなどは一つも築かれなかった。そうではなくて、竜次の胸算用のおよそ半数ほどの体制側の人間がひっそりとこの地上から姿を消したのだった。つまりやや読みにくいが、竜次のレポートによれば「一斉蜂起の十一月六日に、全国ゴーストタクシードライバーの同志千七百余名が、各自、十人のめぼしい客を対象に〈異界送り〉を仕掛けて、実績は、当日の一出番だけで一人当たり体制側の人間三~七人を異界送りにしたから、全国で計八千五百人余りの悪党たちが一夜にしてこの世から消えた。あとの八千五百人足らずには〈異界送り〉が掛からなかったから、対象となった彼らは体制側の人間ではあるにしても悪党ではなかったのだろう。蜂起の日以降も作戦を三ヵ月間継続したから、ひと月十二出番で、十万二千人。二〇〇六年一月六日までに、ざっと三十万六千人もの敵を異界に送り込んだ」
 さすがに今日この頃では、あまりに多い突発的な蒸発・失踪者の数の増大が社会問題化し、連日紙面を賑わして、各テレビの報道特別番組にも取り上げられている。蒸発・失踪にまつわる新語が数多く生まれて、今年の流行語のトップ入りを果たしそうだ。事件記者たちは取材に血眼になり、警察も捜査に乗り出している。
「政府・自衛隊の調査・諜報機関は、極秘裏に、とっくに狙いをあたしたちの近辺に絞ってきている」
と、〈天才ハッカー少女〉涼子が言う。いずれ、いや明日にでも、おれたちやわれわれの同志たちの身辺にも捜査・抹殺の魔手は伸びてくることだろう。中堅層の蒸発者、失踪者の多さに、政府・財界・暗黒街もようやく危機感を深めている。敵はわれわれの正体をいまだ的確には掴んでいないものの、闘争は激化せざるをえない。だからといってそれが、革命前夜の状況の出来に結びつくかどうかとなると、正直言って疑問は膨らまざるをえない。
 革命勢力の主体とその思想・綱領・プログラムが明らかにならなければ、一般民衆も支持の仕様がないではないか?そもそも大衆は革命を支持するものだろうか?われわれゴーストタクシードライバーの闘争手段としての〈異界送り〉は、果たして未来の革命勢力からの支持を取りつけられるだろうか?それすらも疑問に思えてくる。体制側の悪党だけに対象を限定しているとはいえ、あまりに多くの人間を〈異界送り〉にしてゆく責任の重圧に、おれたちはともすれば打ち拉がれそうになる。悪党を〈異界送り〉にするのはよい。しかし翻って、それをするおれたちは、果たしてどれだけ善い実質を内に蓄えているのだろうか?日々、謙虚に自己を変革してゆくほかはない。しかしそうしておのれを少しでも善いほうに変えてゆくことがおれたちに可能ならば、体制側の悪党である彼らにもそれは可能なのではあるまいか、人間ならば?だとしたら、彼らにも自己変革のチャンスを与えるのには、いったいどうすればよいのだろう?端から、あらゆる変革を冷笑、拒絶、すかさず反撃に出ようとする彼らを、抑圧することしか知らない彼らを、いったいどう変えてゆけば良いのか?
むしろ、敵がわれわれの正体を知って、一段と闘争が激化すれば、おれたちも必死に、あらゆる手段を駆使して、戦わざるをえないことだろう。そうすれば、こんな迷いも躊躇いも消え失せよう。
 しかしそのときには、思想的にいまだ脆弱で、武闘手段のハード面にも劣るわれわれは、一旦は壊滅の危機にまで追い込まれてしまうかも知れない。〈透視少女〉民子はそのことをも予見している。
けれども、二〇〇六年五月には、世界の救い主サルヴァトーレが、女の子ならばサルヴァトリーチェが、聖母ララマリーアの胎内から生まれ出る。苦難と迫害と流浪の二十年間を耐え抜いて、サルヴァトーレもしくはサルヴァトリーチェが成人する二〇二六年五月からは、われわれの運動は世界的な規模で新たな展開を見せることになるだろう。
 ともあれ、このまま〈ゴーストタクシー大作戦〉を二〇〇六年十一月五日まで一年間この日本で先行して継続すれば、体制側の中堅層百二十二万四千人ほどが異界に送り込まれることになる。そうして果たして革命前夜の状況がこの東京に出来するかどうか、結果は間もなく誰の目にも明らかになる。そのときから本当の戦いが始まる、政治・社会・文化・軍事・宗教・科学、あらゆる分野、あらゆる局面で。闘いはまだ始まったばかりだ!
 土壇場で降って湧いたように〈神霊少女〉夏子、〈透視少女〉民子、〈天才ハッカー少女〉涼子という異神三少女が唐突に登場したあげく、〈神霊少女〉夏子の降臨によって、思想的にはまったく未組織であったおれたちゴーストタクシードライバー千七百余名の一人ひとりが、夏子同様アナーキーな、熱い革命集団に自己変革を遂げつつある。あの懸案の二〇〇五年十一月六日の一斉蜂起さえ、血一滴流すことなく、密やかに静かに成し遂げてしまった。
 たったいま、ソウルから梁赤日の報告がみなの端末に流れた。ついに韓国でもアナーキーなゴーストタクシードライバーたちの一斉蜂起が開始された。上海のアリスからは「中国人ゴーストタクシードライバーたちの一斉蜂起の日が近づいている」との報告をすでに受けている。ニューヨークのファカスブッシュと、ロンドンのジュリアンからはまだ何の連絡もない。ローマのアントーニオは「報告こそ遅れたが、イタリア全土で蜂起後すでに三日目に入った」と、言ってきた。ミラーノとトリーノからはすでに詳報が入りつつある。パリでの一斉蜂起はさらに遅れる模様。当局の監視の眼が厳しく、慎重さを要するためだ。モスクワでも事態の進展ははかばかしくなかった。
 世界中のゴーストタクシードライバーに連帯を呼びかけて密やかに進行中のこの静かな革命が果たして全世界を同時に変えてゆく世界同時革命に発展するものなのかどうか、誰にも分かったものではない。なにしろ闘いはいま始まったばかりなのだから。まったく、宇宙の永い歴史から眺めれば闘いは、人類の苦難の物語はまだ始まったばかりであった。
 終わったところから始まる物語に終わりはない。ララ洋二、竜次とギャビー、吾郎と夏子、それぞれの行く手の空には、撲殺されたパゾリーニの詩篇が茜色の雲間に黄金色に燃えて浮かんでいた、革命のあしたへの道しるべにも似て。

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